つまり、大久保は慶喜を苦しめるべく「内憂外患」の状態を巧みに作り上げたのである。もし、兵庫開港が実現できなければ、慶喜は外交面での信用を失い、その後は朝廷主導で進めることができる。そうではなく、兵庫開港を優先して四侯を無視したならば、その不手際を責め立てれば、国内の信用を失い、やはり求心力は失墜するはず。
これまでの失敗を生かした、大久保らしい両面作戦だといえよう。ただし、四侯会議に出席するのは、大久保でも西郷でもなく、久光である。大久保はプロデューサーとして、演者である久光を動かすべく、西郷とともに綿密なプランを練ることとなった。
慶喜のやっかいさを身に染みて、実感しているからだろう。会議の前に、大久保と西郷は、久光に建言書を4通も送っている。大久保は久光にこう念押しすることも忘れなかった。
「討幕準備は進んでいる。居丈高に圧倒すべし」
これまでの態度をころりと変えた慶喜
だが、相手を研究しているのは慶喜も同じだった。慶応3(1867)年5月、いよいよ四侯会議が開かれる。すると、「長州問題を先に片付けるべき」という久光の言い分に対して、慶喜は「幕府は寛大に処分するつもりだ」とこれまでの態度をころりと変えた。
慶喜は「あれもこれも」と取ろうとして、結果、何も取れなかったというミスは決して犯さない。自分が絶対に譲れないポイントを明確にして、そのほかは大胆に譲る。このときは、長州藩の処遇についてはいったん譲歩して、慶喜は兵庫開港だけを全力で取りにきた。
「兵庫開港については、国際信義の問題で解決を急ぐべきだ」
長州藩の処遇で対立点が見いだせないと、この意見に反対するのはなかなか難しい。なにしろこれまで薩摩は開国の立場をとってきた。慶喜は巧みに議会をリードすると、四侯をまるめこんで、記念写真まで撮影している。
慶喜からすれば、あとは朝廷から開港の勅許を得るのみ。もちろん、朝廷は大反対するが、異国嫌いの孝明天皇はもういない。慶喜は実に30時間にもわたり交渉を続けて、朝廷から合意をとりつけてしまう。
一方で、四侯会議では、長州藩主の父子の朝敵を赦免して官位を復旧させることも決まっていたが、朝廷からの文書には「長州藩については寛大な処分とする」のみ。慶喜にまんまと謀られた格好となった。
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