ましてや慶喜の場合は状況が悪すぎた。
家茂が死去した時点で「慶喜以外を将軍にしたい」ともくろむ勢力が存在し、将軍候補はほかにもいた。尾張藩からは、元藩主である徳川慶勝や徳川茂徳、また、現藩主である徳川義宜らがおり、ほかにも、紀州藩主の徳川茂承、田安家の徳川慶頼や徳川家達(亀之助)、水戸藩主の徳川慶篤などの名が、次期将軍候補として取りざたされた。
慶喜が最有力候補ではあったものの、反発も少なくなく、家定の正室である天璋院と、家茂の正室である和宮にいたっては「田安家の亀之助に将軍職に就いてほしい」と、老中の板倉勝静に密書を送っている。
そんな逆風を跳ね返すべく、慶喜は長州征討という派手な実績を上げたうえで、華々しく将軍に就任するはずが、それも失敗。かえって信用をなくしてしまった。慶喜が将軍の座を固辞してなかなか引き受けなかったのは、取り巻く状況を踏まえれば、むしろ当然であり、「受けたくても受けられなかった」というのが実情に近いように思う。
孝明天皇の死後、大規模な幕政改革に着手
慶喜が満を持して将軍の座を受けてから、わずか20日後に予想外の事態が起こる。孝明天皇が突然崩御したのだ。
徳川家の実力者でありながら、いつも朝廷を重視した慶喜。孝明天皇にとって欠かさざる存在であり、慶喜の将軍就任を強烈に後押ししたのも孝明天皇だった。慶喜からすれば、一大決心をして将軍を引き受けた途端に、最大の庇護者を失ったことになる。
しかし、慶喜は物心ついた頃から周囲にやたらと期待され、これまで何度も、朝廷と幕府との間で板挟みになってきた。経験上、政情に合わせて政治スタンスを変幻自在に変えるのは、大得意だ。「定見なし」、それこそが慶喜の武器でもあり、このときも、孝明天皇が死去した途端に、大きな政治転換を行っている。
それは開国である。もともと慶喜は攘夷などできるはずもない、と思いながらも、異国嫌いの孝明天皇の手前、開国路線を封印してきた。だが、もう遠慮することはない。イギリス、オランダ、フランス、アメリカの4カ国の公使を大阪に集めると、順番に会見をしていった。そして、これまで散々に引き延ばしてきた兵庫開港を、慶喜は確約している。
同時に慶喜はフランス公使ロッシュの助言を受けながら、大規模な幕政改革に着手。もうダメだとみなが思っていた徳川幕府が、生まれ変われそうなムードを漂わせてきた。
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