江戸時代の「寿司の値段」はいくらだったのか 捨てられるほどマグロが不人気だった理由
外食産業が盛んになった江戸時代
明暦3年(1657)に起こった明暦の大火によって、徳川家康・秀忠・家光という三代にわたって造られた江戸の町は、灰燼に帰してしまった。復興のために数多くの大工や左官などの職人が江戸に入り、これによって江戸の町が新しく生まれ変わった。この時に職人たちが多数江戸に流入したことによって、食習慣が変わり、現在の日本食や日本人の食事スタイルが確立されるきっかけとなる。
それまで食事は朝と夕の1日2食であったが、肉体労働に従事する職人は2食では足りず、もう1食を食べるようになり、1日3食に定着したのが、この頃とされている。江戸には復興のために集められた職人だけでなく、参勤交代で大名に付き従って来た諸藩の藩士など、単身男性が大勢住んでいた。
また、江戸に来ればなんとかなるだろうと、地方からやって来る者も多かった。元手がなくても稼げる仕事もあったからだ。彼らの食事は自炊が基本であったが、1人だと自分で料理をするよりも外で食事したり、出来合いを買ったりする。必然、一膳めし屋や屋台などの外食産業が盛んになる。
彼ら江戸市民の胃袋を満たすために供された、煎茶やほうじ茶で炊いたご飯「奈良茶飯」が江戸の外食産業の嚆矢とされている。江戸後期の屋台からは、握りずし、てんぷらなど今日の日本を代表する料理も生まれた。また、そばや日本酒も江戸時代、現代に伝わるスタイルが確立された。
町人は日銭を稼ぐ仕事が多く、まさに宵越しのお金を持たなかったため、たとえば飴玉やゆで卵は1個と少量で買うことができた。味噌や醬油といった調味料も必要な分だけの購入が可能だった。こうした小売りをする商人は、商品を振り分け棒にくくりつけ、かけ声をかけながら町中を売り歩いた。
買うほうが一声かければ、すぐに商品を持って駆けつける。彼らを棒手振りというが、毎日決まったルートをほぼ同じ時間に通るので、「〇〇屋さんが来たからお昼にしよう」などと、時計代わりにすることもあったといわれる。江戸の人々は家にいながら、いろいろな食べものを手頃な値段で手に入れることができたのである。
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