江戸時代の「寿司の値段」はいくらだったのか 捨てられるほどマグロが不人気だった理由

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現在、すしといえば、握りずしを指すことが多い。握りずしは江戸で生まれたが、長いすしの歴史の中では新参者だ。すし自体は古代からあった。古代のすしは滋賀県の名物「ふなずし」のように飯の中に魚を漬け込んで発酵させた保存食で、食べられるようになるまで何年もかかる。江戸時代の初め頃には漬け込む期間を短くした「生熟れ」と呼ばれるすしが作られるようになった。

さらに早く食べられるよう飯に酢を混ぜて魚の切り身を飯の上に置き、その上に押し板を置いて押した「押しずし」や「切りずし」が、宝暦年間(1751~1764)に登場。現在、俗に「大阪ずし」と呼ばれるすしだ。

それでも飯と上に乗せる魚の切り身とをなじませるのに時間がかかる。その後、酢を混ぜた飯を笹で巻いて重しを乗せた笹巻ずしができ、文政年間(1818~1830)に、握った酢飯の上に魚の切り身を乗せた握りずしが誕生。これだと作ったその場で食べられる。

この握りずしの考案者とされているのが、蔵前の札差板倉屋の手代だった華屋与兵衛。与兵衛は両国回向院前(墨田区)に寿司屋「華屋」を開き、コハダやエビの握りずしを出した。ちなみに令和の世にある同名のファミリーレストランチェーンとは何ら関係はない。

一番高いネタは魚ではなかった

誕生したばかりの頃は、すし屋のほとんどは屋台で、1つ4文(120円)から8文(240円)だった。今一番高いネタのマグロの大トロは、当時の人々の口に合わず、捨てられたといい、卵巻き16文(480円)が一番高いネタだった。

江戸のすぐ近くで新鮮な魚が取れても冷蔵技術が発達していなかったため、酢で締めたコハダや、たれで煮たアナゴなど、ネタはすべて腐りにくい工夫が凝らされていた。現在のすしの2倍から3倍くらいの大きさで、たくさん食べるのでなく、2つ3つ、つまむ程度だったらしい。

屋台から始まったが、次第に高級な店も出現した。このため天保の改革の時には倹約令の処罰となり、手鎖の刑を受けたすし職人が200人を超えたという。天保末期には稲荷ずしが江戸で見られるようなった。当時は油あげを切らずに長いまま中に飯を詰め、注文に応じて切り分けた。1本が16文、半分が8文、4分の1が4文だった。飯の代わりにおからを詰めたものもあったという。

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