「CCAで好きなスポーツができればいいのでは?サッカーもあるのでは?」と尋ねると、Eliotさんは「ポイント稼ぎでやっているだけ。すべてが手段化していて、合理的すぎる」と大きなため息をついた。中学校でCCAをやると高校段階の入試に点数が加算される仕組みがあるのだ。
もちろん、シンガポール人の子どもでも、純粋にCCAを楽しんでいる事例もある。コロナ流行前までは、16時ごろから18時すぎまで公園で遊ぶ子供たちを見かけることもあった。
しかし、Eliotさんの言う通り、放課後の活動が手段化している層がいるのも事実だ。そして、本来評価しづらい教育活動がグレード化されるようになり、本質的に何のために何をさせたいのかはさておき、可視化されやすいところに親たちは注力しようとする。
日本の親にも他人事ではない
こうした結果、何がもたらされているかについては次回にまわすが、「これからはペーパーテストだけではなく、新しい能力も必要」という言説が広がれば広がるほど、子供たちの生活は窮屈になっていくようにも見える。果たして、もともと“新しい能力”で目指されていた創造性などは身についているのだろうか。
そして、家庭による格差が広がる懸念もある。東京大学大学院教育学研究科の本田由紀教授は、“旧来型学力”による競争だった「メリトクラシー」に全人格的な競争が加わっているとして、現在の状況を「ハイパー・メリトクラシー」と呼ぶ(本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』など)。
“近代型(旧来型)能力”は、むしろ時間をかけて勉強をすれば多くの人が習得することが可能であったのに対して、“ポスト近代型(新しい)能力”はどうすれば手に入れられるのかが曖昧で、それゆえにより労力を要し、家庭環境が重要になってしまうというのが本田教授の鳴らしてきた警鐘だ。
おそらく日本の親にも「習い事も、探究学習も、STEAMも、英語も、自然体験も、普通の勉強も……」と、あれもこれもさせたい親心はあり、他人事ではないのではないだろうか。
その“新しい能力”は本当に新しいか。本当に必要か。本当に、今やらせていることで身につくだろうか。それにより失われているものは何か。この言説や競争は、社会に何をもたらしているか。次回はシンガポールの親子の忙しい日常について詳しく書いていきたい。
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