学校の先生に「誠のサイキック青年団」のファンがいて、一緒に厚生年金会館で行われたイベントを見に行ったこともあった。
高校の間にバブルははじけてしまったが、まだ景気はそこまで悪くなっていなかった。就職活動を始めると、一部上場企業の電機メーカーにあっさりと入社することができた。
「選んだ理由は家からさほど遠くないという一点でした。大手電機メーカーですけど主に業者向けの製品を作る会社なので企業名は知らなかったですね。受かった後も『なに造ってる工場ですのん?』って思ってました」
入社後は、プレス作業などを担当する部署で働くことになった。
「その部署にいたのが職人気質の癖の強いオッサンばかりだったんですよ。元ヤクザの人とかもいました。上司は『見て覚えろ』という教育方針で、具体的なことは全然教えてもらえない。そんな部署で育てられたので、ひねくれました(笑)」
楽しくないことをするからお金をもらえると思っていた
入社当初は夜勤が多く給料もよかったが、すぐに残業が減り給料も下がっていった。退社する同期の社員も多かった。
その後、部署異動があり花形と呼ばれる製造ラインに入った。出世コースのラインだったのでイエスマンの職員が多かったが、ムヤニーさんはしばらく職人に育てられてひねくれてしまったせいかすぐに上司に意見してしまう。少し厄介者扱いされるようになった。
「髪の毛を腰まで伸ばしていたので、えらいさんが来るときや、テレビ取材の時は隠れとけって言われましたね(笑)。
ただ、仕事は嫌じゃなかったんですよ。そもそも仕事は楽しいものと思ってなかったので。楽しくないことをするからお金をもらえるんだなと認識していました」
プライベートでは、学生時代から引き続き「誠のサイキック青年団」を聞き、年に1回行われるイベントに足を運んだ。また竹内義和さんが作った、イベントハウスにもよく遊びに行った。そのうちに常連になり関係者とも仲良くなっていった。
イベントの打ち上げでは味園ビルに来ることもあった。ただ当時は今と比べて店は少なく、10軒前後しかなく少し恐い印象があったという。
「味園ビルによく遊びに来るようになった時には、お店は20軒くらいに増えてましたね。ある日、バーでイベントでできた知り合いと飲んでいる時に
『なんか面白いことしたいなあ』
とぼやいたら、お店のマスターに
『お店やったらどないです?』
って言われたんですよね」
「おもしろそうだからやろうか?」と盛り上がった。だが、お店を始めるにはまずは先立つものが必要だ。少なくとも数十万円はかかる。
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