老夫婦が辛苦を乗り越えて福島に帰った理由

故郷へ戻ることに理屈なんてない

木幡孝子さん(左)と夫の尭男さん(筆者撮影)
上智大学文学部新聞学科の水島宏明教授が指導する「水島ゼミ」は、大学生に小さなビデオカメラを持たせ、この世の中にある何らかの社会問題を映し出すドキュメンタリーの作品づくりを指導している。
若者たちが社会の持つリアリティと向き合い、最前線で活動する人々と出会うことによて、社会の構図や真髄を自ら把握していってほしいという取り組みだ。そんな若者たちの10章のドキュメンタリーをまとめたのが『想像力欠如社会』(弘文堂)である。その中から伊藤怜奈さんによる第10章『ふるさと〜6年目の決断~』を全文転載する(第8章『妻として、犯罪被害者として~今日もあなたと生きていく~』はこちら)。

福島の海は静かだった。寄せては返す規則的な波音に、あの日荒狂った海の面影はない。ほのかな磯の香りだけが、風が吹くたび鼻腔をくすぐった。

「ほら、あれ。水平線の向こうに漁船が見える」

そう海の先を指差したのは、木幡孝子さん(76)だ。隣に並んだ夫の尭男さん(80)は、妻の言葉に応えるわけでもなく、ただ黙って漁船を見つめた。その横顔は、幾度もの困難を乗り越えてきたとは思えないほど、柔らかく、穏やかだった。少し、笑っているようにも見える。

震災直後、東京での避難生活を余儀なくされた6年間。適応することに苦しみながらも、都会のアスファルトを見慣れていく日々。

「こんな毎日ももう終わりだ」

尭男さんはどこか寂しげに声を漏らした。運命に翻弄される自分自身に苦笑しているようにも見えた。周囲ではいつのものかもわからない波音が、絶え間なく響いている。

取材日は2016年11月。巨大な津波が彼らの故郷を襲ってから5年半が経っていた。

地上35階から見た景色

東京都江東区東雲にある高層マンション「東雲住宅」。都内有数の埋め立て地にある無数の高層建築物の中でも、ひと際敷地が広く、新しい建物だ。福島第一原子力発電所から半径20km圏外であるいわき市や福島市や、半径20km圏内である富岡町や双葉町、南相馬市など、幅広い地域出身の避難者たちが生活をしている。

36階建てマンションの35階に住んでいるのが福島県南相馬市出身の木幡尭男・孝子夫妻だ。1階ロビーからエレベーターに乗り込み、到着を待つこと約30秒。気圧の変化に耐えられなかったのか、到着を知らせるアナウンスの声が遠くに聴こえた。

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