老夫婦が辛苦を乗り越えて福島に帰った理由 故郷へ戻ることに理屈なんてない

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家の中に入ると、床は木の板で埋め尽くされていた。下水管工事やトイレの工事などで作業をしやすいように木の板を敷いている。木幡夫妻自身の手ではどうしようもできない作業はすべて業者に委託している。合鍵を持つ作業員が、夫妻が東京にいる間に工事を進めているという状況だ。2018年3月の引っ越しに向けて生活ができる最低限の設備を整えなければならない。

「車を運転できる間は、福島で住まないか?」

尭男さんの提案を、孝子さんはすぐに了承した。食材や日用品を購入するため、比較的栄えている地域までは車で行かなくてはならない。車を安全に運転することができる年齢まで、福島で、この南相馬市小高区で暮らそう。尭男さんは被災するまでの75年間、ずっと小高の街で暮らしてきた。

5年もの間離れていた南相馬の実家に戻るという選択は、決心するというよりも、2人の中で流れるように自然と浮かんできた答えなのだろう。

割れた電球はそのまま天井から吊るされていた。私がそのことを指摘すると、「そうか、これは地震のときのか」と、今電球が割れていた事実に気が付いたようだった。地震で崩れた家の中や外を直す暇もなく避難を迫られ、無我夢中で家を出た。

ダイニングに掛かったカレンダーは2011年3月のまま。テーブルに置かれた新聞紙の日付は2011年3月11日のままだ。

地震と津波、そして放射能汚染

「どうせすぐに戻ってこれる。とにかく今は急いで逃げよう」

まさかあのとき始まった「避難生活」が5年以上も続くとは思ってもいなかった。誰も予想できなかっただろう。先ほど車中から見たバリケードに囲まれた家に住んでいた家族も、コンビニエンスストアの店長も、道に落ちていた大量の教科書の持ち主も。誰もが予想できない状況の中で、一瞬一瞬を生き延びたあの日。生と死が交錯する被災地の中でも、特にここ福島は、放射能の被害という目に見えない恐怖に苛まれ、復旧・復興さえも望めない場所になってしまった。

地震と津波、そして放射能汚染。3つの要素が重なったこの場所では、その堆積した課題に優先順位というものをつけなければならない。

「除染作業済み」であることを示すピンクのリボンがはためいていた(筆者撮影)

黄色いセイタカアワダチソウの群れの中に蛍光ピンク色のリボンが見える。このリボンがかかっている場所は「除染作業済み」。数歩歩くごとに、人工的な蛍光ピンク色が目に入る。そのたびに、放射能に汚染された土砂の廃棄や除染作業が最優先で、津波や地震の被害への対策は後回しになっているという現状を、実感せざるを得なかった。実際に孝子さんのお兄さんの遺骨はいまだに見つかっていない。

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