老夫婦が辛苦を乗り越えて福島に帰った理由

故郷へ戻ることに理屈なんてない

木幡家を後にし、私たちは福島県浪江町へ向かった。浪江町は孝子さんが生まれ育った場所だ。

2011年3月11日。孝子さんは、義姉の入院していた病院に見舞いに行った後、8歳上の自分の兄の本田実さん(当時77歳)が住む南隣の浪江町に向かい、そこで30分ほど談笑した。兄妹の何気ない、たわいもない時間だった。

生まれ育った浪江町での兄との別れ

「この後整形外科の予約があるんだ。行かなきゃなんないからもう行くよ」

「そうか、またな」

お茶を1杯と茶菓子をもらい、彼女は14時を回る前に実さんの家を出た。そして整形外科で検診を受けた後、家に帰る途中に寄ったホームセンターで被災した。実さんが住んでいた浪江町は甚大な津波の被害に遭った。お兄さんは家ごと流されてしまった。

「私が最後に(兄に)会ってた人なんだべ。何ていうか、生き延びたってことが申し訳ねえんだ」

孝子さんはつぶやいた。申し訳ない。家にいることは知っていたのだから、逃げろと言ってあげればよかった。そんな後悔と自責の念が孝子さんの胸には今でも渦巻いている。お兄さんの葬式には、お骨の代わりに家の風呂場のタイルを2、3かけら入れた。骨壺を振ったらころころと音がした。その音がとても間抜けで悲しかったと、孝子さんは述懐する。

「(浪江町に来ると)兄ちゃんを思い出す。墓も早く建ててやりたいんだ」

津波に襲われた浪江町は、今は生えっぱなしの雑草とセイタカアワダチソウで埋め尽くされている。ときどき通る除染作業員が乗ったトラックの音と、がれき処理をするショベルカーの作業音だけが無機質に響いている。そんな浪江町の中心にある大きな建物、それが請戸小学校だ。孝子さんのお兄さんの家のすぐ近くにある。

浪江町の海沿いに位置する請戸小学校では、学校側の懸命な判断と迅速な避難の末、津波による死者は1人も出なかった。しかし、建物の被害は甚大だ。学校に入ってみると、天井は剥がれ、電線や鉄骨はそこかしこから飛び出しており、床はがれきだらけだった。体育館を覗くと、床がずっぽりと抜け落ちていた。「危ないから入らないで」と尭男さんの声が背後から飛ぶ。紅白幕が垂れたままの体育館。3月11日、卒業式が間近に迫っていた。

海水とがれきにまみれた裁縫道具や教科書。変形したパイプ椅子。さびた蛇口が並ぶ水飲み場。窓はすべて抜けていて、外が簡単に一望できる。その外ではショベルカーが大量のがれきを規則的に運んでいる。ここがかつて、子どもたちの笑い声と活気で溢れ、街のシンボルとして根付いていたとは到底思えなかった。

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