この絵のように、仙厓は禅の教えをユーモアに包んで人々に伝えようとした。
「字の読めない人でも、楽しさから自分の絵の世界に入ってきてくれる。そうすれば仙厓の術中にはまったようなもので、もっと絵を理解したいと思ってくれればいい。字の読める人を呼んできて、何が書いてあるのか教えてもらえばいいし、お坊さんに尋ねてもいい。絵で魅了して、字を読んでより深く理解してもらうという二段階方式にしていたんです」
出家するのは教養のある人ばかりではなかったし、仙厓は庶民とも交流した。難しい漢文ではなく仮名まじり文を使い、自分の持っているユーモアのセンスをフル活用して、敷居を下げていたのだという。
座禅する自画像?!
ではここで、ご本人に登場いただこう。この絵は仙厓の自画像と言われている。
頭から布をかぶり、背中を丸めて座禅する禅僧が描かれ、その横には、「仙厓さん、そちらを向いて何しているのですか?」という言葉が添えられている。
「仙厓のように、悟りに到達したお坊さんでも、さらに高い境地を求めて座禅している。それを絵に描いて弟子たちに示し、寺で修業する僧のあるべき姿をやさしく説いている。もしかしたら、自分への問いかけだったのかもしれません」
仙厓は美濃(現在の岐阜県)に小作農の次男として生まれ、11歳で禅寺に入った。出家した後、横浜で修業し、諸国を回って京都で修業を続けた。40歳のとき、博多の聖福寺の住職として招かれる。62歳で隠居したが、その後も郷里に帰らず、亡くなるまで博多を離れなかった。
「転勤して、そのまま骨を埋めたわけです。ただ、すでに名の知れたお坊さんだった仙厓が、なぜ江戸でも京都でもない福岡に行ったのか? 聖福寺が日本最古の禅寺だったので、自分が住職となるにふさわしいと考えたのでしょう。それが生涯、仙厓の誇りだったのだと思います」
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