「豊臣秀次切腹事件」には大きなウソがある! 歴史を動かした大事件、その謎解きに挑む

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②切腹命令の有無

秀次出奔後の7月12日と13日に、相次いで2つの文書が発せられている。ひとつは「秀次高野住山」令、もうひとつが「秀次切腹命令」である。

「秀次高野住山」令の主な内容は、

・秀次のために料理人や身の回りの世話をする者の人数を定めていること
・秀次はじめ近侍の者が刀や脇差を持つことを禁じていること
・秀次が勝手に下山しないよう、また見舞いの者が来ないよう警備を固めるよう指示していること

 

に集約される。この文書を「秀次切腹までの環境維持」と見る向きもあるが、それは通説によるバイアスがかかった読み方と言わざるをえない。虚心坦懐にこの文書と向き合えば、「ある程度の期間、秀次が高野山にとどまること」を秀吉が想定していたとの結論が導き出されるのが自然である。7月12日の時点で、秀吉に秀次を切腹させる意思はなかった、むしろ秀次の自決を防ごうとさえしていたのだ。

そして、翌日の「秀次切腹命令」については、関白の切腹という重大な命令を伝える文書であるにもかかわらず、秀吉ではなく石田三成ら奉行衆の連名で発せられている。また、「高野住山」令にはいくつかの写しが残され、秀吉や秀次存命時の文書であること、それが高野山頂に到着していたことが確認できるのに対し、「切腹命令」はそのような写しは確認されず、『甫庵太閤記』に記されているのみである。

この2つの文書の性格を簡単に記すと、前者は禁固刑、後者は死刑である。正反対の内容の命令が短期間で発せられたことは、単なる心変わりというには不自然である。そして、双方の文書を検討すると、より高い信憑性を有しているのは明らかに前者であり、後者は江戸時代の創作と考えられるのである。

では、なぜみずから切腹したのか?

③秀次切腹の真意

では、なぜ秀次はみずから切腹したのか。禁中に仕える女性たちが記した輪番日記『御湯殿上日記』には、秀次切腹の翌7月16日条にこのように記している。

くわんはくとのきのふ十五日のよつ時に御はらきらせられ候よし申、むしちゆへ、かくの事候のよし申なり、

従来、この記述は「秀次は昨日15日の四つ時に、(本来なら打首獄門となるところ、)無実なので切腹させられた」と解釈されてきた。《名誉ある死》といったところだろうか。しかし、のちに秀次の首がさらされたり、一族が大量処刑されていることを考えると、《名誉ある死》とはほど遠い。

この点について、「せ/られ」を〈使役〉で読むことは文法的に無理があるにもかかわらず、これも通説による思い込みで「切腹させられた」とのみ解釈されてきた。しかし、当時の外国人が日本語を習得する際に使用した文法テキストによると、助動詞「せられ」には〈尊敬〉の意味もあったことが記されている。これに沿って現代語訳すると

関白秀次殿は昨日15日の四つ時に御腹をお切りになったということを(高野山が)申してきた。無実であるから(その証明のために)このようなことになった、ということである。

と読むことができるのである。

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