「豊臣秀次切腹事件」には大きなウソがある! 歴史を動かした大事件、その謎解きに挑む

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そもそも切腹には、〈させられる〉場合と〈みずから行う〉場合があった。前者は刑罰としての切腹だが、後者は強烈な自己主張、つまり「究極の請願」という一面があった。主君をいさめるために家臣が切腹する「諌死」もこれにあたるだろう。秀次は、己の身の潔白を証明する「究極の請願」のために切腹したという解釈も、十分成り立つ余地があるのである。

④一族処刑の真相

秀次の切腹は、秀吉ならびに豊臣政権にとって想定外の事件であった。そのため、これ以後の秀吉・三成らは、事件への対応に苦慮することになる。主な対策は以下の2つである。

・秀次遺領の再配分
秀次の広大な遺領が豊臣家臣に再配分される際、最大領域の尾張清洲は、石田三成に与えられるというのが当初の予定であった。しかし、「秀次切腹」は自らの意向に沿わない事態であったため、三成はこれを固辞している。結果的に、高野山に秀吉の意向を伝える役目を帯びた福島正則ら3人の使者は、「秀次高野住山」という任務に失敗したにもかかわらず、もれなく加増を受けることになった。
・秀次の家臣など関係者の処罰
秀次切腹の報が京都に届いて9日という時間が経った後、秀次の家臣や義父・菊亭晴季の流罪など関係者の処罰が続き、文禄4年8月2日の秀次一族の処刑が行われた。

 

現職の関白の切腹という前代未聞の大事件から政権を守るために、豊臣政権は事件を「切腹して当然の謀反事件」に仕立て上げる必要に迫られた。事件を「秀次の謀反」というストーリーで一貫させるために、福島らを加増し、秀次の関係者や一族を処罰したのである。これらは、従来の解釈では「当初の予定通り」「怒りを抑えられない秀吉の愚行」と見られていたが、実際はそうではなかった。すべては、政権が後付けで秀次の罪状を吹聴した結果なのである。

政権に残った大きな傷

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事件を通じて、豊臣政権は秀次の「出奔」を「追放」に、「無実の自害」を「切腹命令」に改ざんし、秀次を「天下の大罪人」とするためにその一族を殺戮(さつりく)した。秀次の死から9カ月後、秀頼の初参内などのセレモニーによってようやく事件は終息したが、豊臣家と政権は大きなダメージに苦しむことになる。

なかでも重大なのは、冒頭に記した、豊臣家と政権の次代を担うはずだった唯一の成人男子・秀次とその子どもたちを一挙に失ってしまったことだった。豊臣家には老いた秀吉と幼い秀頼だけが残され、徳川家康に政権奪取のチャンスを与えることになる。秀頼の傅役・前田利家の死と関ヶ原合戦を経て、豊臣家は大坂夏の陣で滅亡するのである。秀次の死から、わずか20年の出来事であった。

秀次切腹事件がなければ豊臣政権の方向性は大きく異なっていたであろうし、日本の歴史も違った道を歩んだ可能性もある。たった1人の人物の死がその後の歴史を大きく変えた、「豊臣秀次切腹事件」とは、それほどまでに重大な事件なのである。

矢部 健太郎 國學院大學教授

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やべ けんたろう

博士課程後期修了、博士(歴史学)。防衛大学校人文社会科学群専任講師を経て、現在、國學院大學文学部教授。専門は、日本中世史、戦国・織豊期の政治史・公武関係史。主な著書に『豊臣政権の支配秩序と朝廷』(吉川弘文館、2011年)、『関ヶ原合戦と石田三成』(吉川弘文館、2014年)など。

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