新説!豊臣家を滅ぼした「組織運営」の大失敗 「秀次切腹事件」がターニングポイントだった
秀次の切腹は「想定外」だった!
「豊臣秀次切腹事件」とは、文禄4年(1595)7月15日、高野山で起きた豊臣秀次の切腹とその妻子の集団処刑に至る騒動を指す。秀吉から譲られて関白となった甥・秀次は、いわば豊臣政権の2代目であるが、「殺生関白」と呼ばれるほど暴虐な振る舞いが多く、息子・秀頼を後継者にしたい秀吉によって、高野山へ追放、切腹を命じられたという通説が一般的に認識されている。
この事件は朝鮮出兵と並ぶ豊臣秀吉晩年の愚行の代表的事例とされる。織田信長の足軽から天下統一を成し遂げた英雄・秀吉も晩年はもうろくし、みずからの愚行により豊臣政権の寿命を縮めた、というイメージを後世にまで残したのである。
しかし、史料を丹念に読み込み、関係人物の行動、当時の武士の思考をも考慮すると、「秀吉に秀次を追放・切腹させる意図はなかった」事実が浮かびあがる。たとえば、以下の点などである。
①秀吉は秀次に召使いや料理人、番人をつけている
文禄4年7月12日付「秀次高野住山令」で秀吉は高野山に、秀次の身のまわりの世話をする者や料理人をつけるよう命じている。また、秀次の下山や、彼を見舞う者の侵入を見張るための番人を用意するよう、高野山の僧侶たちに命じている。いずれも、秀次をすぐに切腹させるつもりなら必要ない措置である。
②切腹を命じる一次史料が残されていない
「秀次高野住山令」は一次史料に写しが残されているが、秀次に切腹を命じたことを示す一次史料は見つかっておらず、江戸時代に完成した『甫庵太閤記』に形跡が残るのみである。しかも、それは秀吉の時代に作成された文書とは考えられない形式・内容のもので、「偽作」と断定すべきものである。
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