新説!豊臣家を滅ぼした「組織運営」の大失敗 「秀次切腹事件」がターニングポイントだった

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③秀次への切腹命令を高野山に届けられない

仮に文禄4年7月13日に発せられた秀次切腹命令が実在したとしても、秀次が切腹した7月15日午前10時までに高野山に届けることは物理的に不可能であり、この命令が存在しなかった可能性が高い。

④切腹は必ずしも罪人が行うものではない

切腹には「究極の請願の形態」という一面があり、自発的に行うケースがあった。同時代の日記からも、当時、秀次が自発的に切腹したととらえられていたことがうかがえる。

これらはあくまでも数ある根拠の一部だが、秀次出奔から切腹までの時系列を改めて客観的に見直すと、秀次の高野山への入山は秀吉の命令による「追放」ではなく「出奔」であり、また切腹も自らの決意によるものと考えられる。つまり、そうした秀次の一連の行動は、秀吉にとって想定外の出来事だったことがうかがえるのである。

「一族経営」豊臣政権の命綱

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豊臣家略系図。赤字は文禄4年7月の時点で亡くなっている人物、青字は他家からの養子。豊臣家を担う成人男子が秀次しかいなかったことがわかる

秀吉という圧倒的な存在感を持つ個人の存在なくして豊臣政権は誕生しえなかった。それは逆に、秀吉の死後に後継者が政権を運営していく場合、数々の困難が予想されることを意味する。そのことを熟知していた秀吉は、政権を永続させるためにある手を打った。豊臣家を「摂関家」にしたのである。

「摂関家」とはその名のとおり、国政を取り仕切る摂政と関白になれる家格のこと。近衛・一条・二条・九条・鷹司の5家のみの、貴族社会の頂点に君臨する、まさに選ばれた家である。秀吉は、近衛家の猶子となることで武家として初めて任官したわけだが、その時の彼は「藤原姓」を名乗ったことになる。その2カ月後、朝廷から新たな武家の本姓として「豊臣姓」を下賜されたことにより、豊臣宗家は「豊臣摂関家」の家格を得たわけである。これにより「位人臣を極めた」秀吉は、個人としてのみならず、豊臣宗家にも絶大な権威を帯びさせることに成功したのである。秀吉は、ようやく手に入れた関白の座を秀次に譲ることで、豊臣家による関白職の独占、そして豊臣政権の正当性を担保しようとした。その秀吉が、みずから関白・秀次を殺したとなれば、それはいわば究極の「自己否定」である。そのようなことが、現実的にありえるだろうか。

さて、現代の一族経営の企業では女性社長は珍しくないが、戦国時代はとにかく男子の数がものを言う。秀吉が一代で築いた豊臣政権の弱点は、豊臣家の男子が少ないことだった。系図を見てもわかるように、秀吉は長男・鶴松を幼くして失い、もっとも頼りにした弟・秀長とその息子(養子)・秀保も天正19年・文禄4年に亡くなってしまった。文禄4年7月の時点で数え3歳の秀頼が成人するまでの間、政権を託せる一族の男子は秀次以外におらず、まさに命綱といえる重要な存在だった。その秀次を切腹させるなど、やはり政権の寿命を縮める愚行以外の何物でもないのである。

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