新説!豊臣家を滅ぼした「組織運営」の大失敗

「秀次切腹事件」がターニングポイントだった

上司が部下の様子を気にかけ、マネジメントするのはもはや常識である。ましてや、敗北が一族の生死にもかかわる戦国時代であれば、その重要性は言うまでもない。戦国大名は一族や家臣団の結束を強めるため、さまざまな対策を講じている。

「人たらし」といわれ、全国の大名をまとめあげた秀吉は個人的魅力もさることながら、人材マネジメントの天才でもあった。諸大名を取り込み、豊臣姓・羽柴名字を下賜することで「ファミリー」を形成したのである。

上司・秀吉による部下・秀次のマネジメント失敗

『関白秀次の切腹』(矢部健太郎著、KADOKAWA)上の画像をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

しかし、一族の中でも肝心要の秀次が精神的に追い詰められていたこと、そして、普段の生活からは想像もできないような、武士としての強い決意を併せ持っていたことに、秀吉は気づかなかった。謀反の疑いをかけられた秀次は自ら高野山へ出奔して謹慎し、身の潔白を証明するために覚悟の切腹を遂げてしまう。諸大名をうまくマネジメントできた秀吉も、一族の「部下」には目が行き届かなかったのだろうか。このマネジメントの失敗が、秀次の切腹という悲劇を招き、豊臣政権の屋台骨を揺るがしたのである。

関白の切腹という前代未聞の大事件に見舞われた豊臣政権は、これ以後、事件の火消しに追われることとなる。この結果、事件を一貫性のある「謀反事件」に仕立て上げる必要に迫られた政権は、秀次は切腹に値する人物であったと喧伝し、秀次の妻子全員の処刑という悲惨な結末をもって、事件は幕を降ろすのである。

そして、政権の将来を担う秀次を失った豊臣家は、慶長3年(1598)の秀吉の死、慶長5年の関ヶ原合戦、慶長8年の徳川幕府成立を経て、慶長20年(元和元年・1615)の大坂夏の陣で滅亡する。秀次の切腹から、わずか20年であった。

秀次が自害を選ぶほど追いつめられていたことに秀吉が事前に気づいていれば、どうなったであろうか。秀吉の死後も、豊臣政権は秀次と彼を支える石田三成らによって運営され、秀頼が関白となる道も残されていただろう。また、秀次には男児が4人おり、彼らが成人すれば「一族男子の不足」という豊臣政権の弱点を大幅に改善できる可能性も高まる。もちろん、秀頼と秀次の子どもたちとの間で権力争いが発生する可能性もなくはないが、それは豊臣政権内部での、また「豊臣宗家」内での争いであって、外様の徳川家が政権を奪取していくような未来は防げただろう。少なくとも、秀次切腹による混乱状況よりは安定した政権を維持でき、秀次の死から5年後の関ヶ原合戦、20年後の豊臣家滅亡といった事態は避けられたのではなかろうか。

上司・秀吉による部下・秀次のマネジメント失敗は、豊臣政権という組織に最悪の結果をもたらした。人材マネジメントの成否が組織の存亡をも左右することを、およそ400年前の悲劇を教訓として知っておきたい。

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