「豊臣秀次切腹事件」には大きなウソがある! 歴史を動かした大事件、その謎解きに挑む
2、「豊臣家第2代関白」という立場
天正19年(1591)、秀次は秀吉より関白の位を譲られた。
関白とは天皇の後見役ともいうべき官職であり、本来、「摂関家」と呼ばれる近衛・九条・二条・一条・鷹司の5家のみが就くことができた。
秀吉は近衛家の猶子となって「藤原秀吉」として関白に任じられたが、直後の豊臣姓下賜により新たな「摂関家」として豊臣家を立ち上げることに成功した。秀吉は、豊臣家が織田・徳川ら他の大名たちとは「格が違う」ことを明らかにしたのである。そして、関白の座を秀次へと継承することで、秀吉は豊臣政権の永続性と正当性を担保しようとした。
つまり関白秀次とは、「これからも日本を治めていく豊臣家」の象徴的存在であった。その秀次を秀吉が殺したとすれば、それは己が築いた豊臣家と豊臣政権の存続を危うくする愚行でしかない。それゆえに、この一件の説明には古くから「秀吉のもうろく」というキーワードが繰り返されてきた。しかし、政権の実状に関する実証的な研究をふまえれば、「秀吉のもうろく」も秀次の「殺生関白」も、信頼すべき根拠のない作り話であったというべきだろう。秀吉の頭の中に、秀次を殺すという選択肢が浮かんだとは想定しがたいのである。
秀次切腹、4つの新解釈
秀吉が秀次を殺すつもりではなかったのならば、秀次切腹事件はあらゆる局面の見直しを迫られることになる。以下に、事件の重要なポイントを4つ挙げ、考察を加えていきたい。
7月 3日 石田三成らが聚楽第にて秀次を詰問 …… ①
7月 8日 秀次が高野山に向かう …… ①
7月 12日 「秀次高野住山」令が出される …… ②
7月 13日 「秀次切腹命令」が出される …… ②
7月 15日 秀次が切腹 …… ③
8月 2日 秀次の一族を処刑 …… ④
① 秀次は高野山へ追放されたのか?
通説は「秀吉への謀反の嫌疑を詰問された秀次が高野山へ追放・切腹を命じられた」とし、秀次の謀反が高野山への追放と切腹の直接の原因としているが、秀次の謀反を証明する一次史料は見つかっていない。
その代わりにこの時期の重要な事件として「天脈拝診怠業事件」が挙げられる。これは、文禄4年6月20日、天皇の侍医・曲直瀬道三(玄朔)が天皇の診察より秀次の診察を優先した事件である。石田三成らの詰問はこの事件についてのものと考えられる。
この詰問の5日後の7月8日、秀次は高野山へ向かう。これは秀吉の命令ではなく、秀次の自発的な行動であった。その根拠は、種々の同時代の日記史料の記述である(いずれも筆者による現代語訳)。
「秀次は元結をお切りになった。高野山にお住まいになるため、ということを申してきた」(『兼見卿記』)
「秀次は伏見へ赴いたものの秀吉と義絶し、夕刻に遁世して高野山に向かった」(『言経卿記』)
「関白が高野山へ元結を切って御出奔なさった」「関白は逐電なされ」(『大外記中原師生母記』)
いずれも秀吉の命令=「追放」ではなく、秀次の自発的な行動=「出奔」として記録されている。同時代人は「秀次の意思による出奔」と認識していたのである。早くもこの2日後に、秀吉は「秀次を高野山へ遣わした」と述べてはいるけれども、それは事態の沈静化を狙った政権による後付けの説明だったのである。
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