「豊臣秀次切腹事件」には大きなウソがある! 歴史を動かした大事件、その謎解きに挑む
歪められた秀次像
「豊臣秀次切腹事件」とは、文禄4年(1595)7月15日、高野山で起きた豊臣秀次の切腹とその妻子の集団処刑に至る騒動を指す。秀吉から譲られて関白となった甥・秀次は、いわば豊臣政権の2代目であるが、「殺生関白」と呼ばれるほど暴虐な振る舞いが多く、息子・秀頼を後継者にしたい秀吉によって高野山へ追放、切腹を命じられたという通説が一般的に受け入れられてきた。
そうした「豊臣秀次切腹事件」ならびに秀次本人に対する通説・評価は、江戸時代に成立した『甫庵太閤記』や『川角太閤記』などを根拠にしているものが多い。ただしそれらには、すでに徳川の世となっている時代背景からか、秀吉や秀次をことさらにおとしめる記述もみられる。
その代表といえるのが、いわゆる「殺生関白」であろう。秀次が生きていた同時代史料にそのような記述はないのに、慶長7~8年頃に著された『大かうさまくんきのうち』に突然現れ、暴虐な秀次というイメージを決定づけている。
また、秀次の没年齢について『甫庵太閤記』は28歳としているが、より信憑性が高いとみられる史料では32歳となっている。30歳前後の生涯において4歳の違いは非常に大きい。「秀次は未熟な若輩者」というイメージを植え付けようとした可能性も想定されるだろう。
では、実際の秀次は豊臣家にとって、どんな存在だったのか。
通説では「秀吉に切腹を命じられた」とされる秀次だが、豊臣政権の実状からすれば、絶対に殺してはならない人物だったと考えられる。以下の2点から説明しよう。
1、豊臣家の数少ない成人男子
秀吉の長男・鶴松や弟・秀長とその息子たちを失っていた豊臣家にとって、秀次は秀吉の後を継ぎ、まだ数え3歳の秀頼の将来を託せる唯一の成人男子だった。しかも、秀吉と違って子だくさんの秀次には男子もおり、一族不足の解消に、秀次の血筋は貴重だったことだろう。
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