偏差値30台のヤンチャを甲子園児に育てる男 大人が高校生を指導する意味

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 3年後、野球部の監督が転勤となり、校長の要請を受けて跡を継いだ。

練習初日、「グラウンドに草がなくなるまで、練習しない」と言うと、11人いた部員が1人になった。宮崎とその生徒は雨の日も風の日も雑草を抜き続け、ようやくきれいになったグラウンドでキャッチボールを始めた(余談だが、雑草抜きを続けた部員は現在、西日本工業大学硬式野球部を監督として率い、昨夏には2度目の全日本大学選手権出場を果たした)。

「部に戻りたい」と頭を下げた10人を受け入れ、翌年は5人が入部してきた。宮崎は「黙って俺の言うことを聞いておけばいいんや」とグイグイ引っ張り、部は急速に力をつけていく。「北大津で野球をしたい」という新入部員が増え、98年夏には県大会で初の決勝進出を果たした。

教え魔になってはいけない

宮崎の熱血指導がなければ、北大津の急成長もなかっただろう。だが本人は、当時の自身について、肩に力が入っていたと振り返る。

「監督になったばかりの者は、選手にいかになめられないかに苦心します。選手のことなんて考えず、自分が監督として一目置かれなあかん。だから、ものすごく教え魔になる。教えんでええようなことも、野球の知識をひけらかすくらいに教える。選手の頭がパンクしようが関係なく、『すごいやろ、俺はこれだけ野球を知っているんや』ってね。僕自身もそうだったと思います」

順調に強くなった北大津高校野球部だが、どうしても甲子園出場には届かなかった。練習で細かく指示を仰いでくる選手に、宮崎は「ちょっとは自分たちで考えてできんのか? 1から10まで人に指示を仰いで」とフラストレーションをためていく。悶々とする日々を送るうち、ようやく気づいた。県大会決勝の壁を突き破れないのは、自らに原因があるのではないか、と。

「情けない話で、僕の能力だけで選手を甲子園に連れていくのは不可能やなとわかった。僕の力には限界がある。選手の知恵も借りなければと、気づきました」

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