トヨタが雇った再建屋は日立出身のセールスマン 名古屋グランパスGM・久米一正【下】
「会社内の出世レースで勝っても仕方がない。好きなサッカーで飯を食おう。そう決心したんです」
エスパルスでの年収は970万円に下がったが、給料以上のやりがいが新天地にはあった。
久米が真っ先にメスを入れたのが、地元出身者の優遇だ。清水はサッカーどころというプライドがあり、スタッフも選手も地元出身者の占める割合が高かった。そこで久米はいい選手なら他県出身者も獲得するよう指示。同時に、県内の高校サッカー部監督たちとのパイプも強め、地元のタレントもかき集めた。
優秀な若手が集まるようになったエスパルスは徐々にチーム力が向上。06年からは2年連続でJリーグの4位に輝いた。
この時期、同時並行で久米はあることに取り組んでいた。それはレイソル時代に試行錯誤して行き着いた「GM論」を1冊の本にまとめる作業だ。選手の給与評価システム、高校・大学の指導者へのアプローチ、選手の両親へのプレゼンテーション、選手を獲得するときのチェック項目など、ケース別のGMマニュアルを作成したのだ。
「これができたときに、もう自分はどこへ行ってもGMとして食べていけるという自信がつきました。各クラブごとに細かい事情は異なっても、やるべきことは同じなんです」
“技術屋”玉田を復活させた営業トーク
これだけの人材を他のクラブが放っておくわけがない。久米のところには複数のチームからオファーが舞い込んだ。すでに久米自身もエスパルス再建の手応えを感じていた。加えて、07年に妻を亡くしたことで、環境を変えたいと思うようになっていた。
久米が選んだのは、名古屋グランパスだった。
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