十条銀座東通りを抜けて線路を渡り、両サイドに並ぶ商店を眺めながら歩いて行くと、外壁が朱色に塗られた劇場が姿を現した。この地に開場し、73年の歴史を持つ「篠原演芸場(北区中十条2-17-6)」だ。
「1日2合の酒で貸してやる」
有限会社篠原演劇企画の3代目社長、篠原正浩さんが演芸場の歴史を語ってくれた。
「そもそも大衆演劇は、江戸時代に旅芸人などが各地で演っていた旅芝居が起源になっているのだと思います。篠原演芸場は私で3代目ですが、曾祖父はやはり地方旅回りの興行師だったようです。埼玉県を拠点に、旅回りをするという生活でした。篠原演芸場の初代である私の祖父は曾祖父の興行を手伝っていたのですが、埼玉県から拠点を移して東京で一旗揚げようとやってきた。それが終戦から2、3年のことです」(篠原さん)
ところが初手から世間の荒波に揉まれることになる。都内の別の街に場所を見つけ、とある劇団と契約したまではよかったが、当日になってすっぽかされたというのだ。途方に暮れて流れ着いたのが十条の街だった。
「このあたりは空襲の被害がわりと少なかったようです。風呂屋の跡地を持つ地主さんと交渉して場所を確保しました。この地主さんが面白い人で、当初は”清酒を1日2合持ってくれば貸してやる”という契約だったようです(笑)」(篠原さん)
終戦直後で娯楽に飢えていた住民たちが連日おしかけ、興行は大成功だった。
篠原さんが続ける。
「昭和の初めから高度成長期まで、大衆演劇は勢いがありました。最盛期には都内に50以上の劇場があったと聞いています。ところが、映画やテレビの普及におされて、現在、東京23区内で1年間を通しての常設小屋はここ(篠原演芸場)と、浅草の木馬館大衆劇場(台東区浅草2-7-5)だけです」(篠原さん)



















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