敗戦直後「800人を超える社員が唯一の財産」といい放った【出光の創業者】が下した"英断"の凄み
畑違いの仕事で「従業員の食い扶持」を確保
昭和20年(1945)8月15日、出光佐三は多くの日本人同様、正午の玉音放送によって日本の敗戦を知る。当日の日記には「十五日正午、玉音を拝す。(略)解説により、ようやく終戦の事実を知る。涙も出ず、ただ茫然たり」と当時の心情が書き留められている。
外地重点主義をとり、国外を商売の主軸にしていた出光にとって敗戦の影響は甚大だった。
中国大陸を始めアジア各地に展開していた事業と資産のすべてを喪失し、国内の設備は戦時中に統制会社に吸収されている。国策に協力するため提供していた自社船舶はほとんどが沈没させられ、わずか1隻が残ったのみ。出光は丸裸になったも同然だった。
しかし、佐三は終戦の詔勅からわずか2日後の17日、奇跡的に焼け残った銀座の出光本社に社員を集めて訓示を行った。

















