敗戦直後「800人を超える社員が唯一の財産」といい放った【出光の創業者】が下した"英断"の凄み

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戦後、すべての事業を失った「出光」が下した決断とは(写真:hide0714/PIXTA)
800人を超える海外の社員は、最後に残った唯一の資本じゃないか――。戦後まもなくのこと、すべての事業を失いどん底に突き落とされたはずの「出光」の創業者・出光佐三は、周囲にこういい放ったといいます。
そんな佐三が「1人の従業員もクビにしない」ために挑んだ事業には、実に意外なものもありました。別冊宝島編集部の『出光佐三 人生と仕事の心得』から一部を抜粋・編集する形で、「出光」が戦後に取り組んだ事業の、知られざるエピソードをご紹介します。

畑違いの仕事で「従業員の食い扶持」を確保

昭和20年(1945)8月15日、出光佐三は多くの日本人同様、正午の玉音放送によって日本の敗戦を知る。当日の日記には「十五日正午、玉音を拝す。(略)解説により、ようやく終戦の事実を知る。涙も出ず、ただ茫然たり」と当時の心情が書き留められている。

外地重点主義をとり、国外を商売の主軸にしていた出光にとって敗戦の影響は甚大だった。

中国大陸を始めアジア各地に展開していた事業と資産のすべてを喪失し、国内の設備は戦時中に統制会社に吸収されている。国策に協力するため提供していた自社船舶はほとんどが沈没させられ、わずか1隻が残ったのみ。出光は丸裸になったも同然だった。

しかし、佐三は終戦の詔勅からわずか2日後の17日、奇跡的に焼け残った銀座の出光本社に社員を集めて訓示を行った。

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