敗戦直後「800人を超える社員が唯一の財産」といい放った【出光の創業者】が下した"英断"の凄み

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その訓示の内容は、泣き言をいわずに大国民としての態度を失わず、堂々と日本国の再建設に進まなければならない、というものだった。

「私はこの際、店員諸君に三つのことを申し上げます。一、愚痴をやめよ。二、世界無比の三千年の歴史を見直せ。三、そして今から建設にかかれ。愚痴は泣き声である。亡国の声である」

敗戦わずか2日後の段階で、ここまで前向きな決意に至った人間が果たして日本中に何人いただろうか。

800人を超える海外の社員が「唯一残された財産」

日本は敗戦によって日本列島以外の領土、権益のすべてを喪失し、そこに暮らしていた国民及び軍人を速やかに帰還させなければならなくなった。

民間の引き揚げは厚生省(現、厚生労働省)が、軍の復員は復員省(旧陸・海軍省)が担ったが、その人数は一般国民約300万、陸海軍350万という膨大な数にのぼった。

こうした中で、出光佐三は、周囲を驚かせる決断を口にする。「馘首せず」、つまり1人の従業員もクビにせず雇い続けるというのである。

全事業を失い、残されたのは当時の貨幣価値で250万円の負債のみという状況で、佐三は「800人を超える海外の社員は、最後に残った唯一の資本じゃないか」といい放ち、新たにつくらせた社員名簿をながめて「ほう、これが俺の財産目録か」とつぶやいた。

佐三は、続々と引き揚げてくる従業員に対して、きちんと社内に席を用意し、あるいは当面の手許金として数千円という大金を渡す。中国大陸の支店に対しては「中国人従業員に可能な限り給料と退職金を支払うように」という指示まで出していたのである。

これらは敗戦直後の混乱期には考えられないことであり、この話が伝わると巷には「出光自殺説」「出光発狂説」が流れたほどだ。

終戦直後の日本人の生活は、実質賃金は戦前比30%、消費水準でも60%という悲惨な状況に陥っていた。

当初GHQの対日政策は、民主化の徹底と「生活水準をアジア平均以上にはさせない」ことを目的にしていたため、財閥解体や農地改革といった大ナタを振るい産業構造に躊躇なく変革を与えた。

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