敗戦直後「800人を超える社員が唯一の財産」といい放った【出光の創業者】が下した"英断"の凄み

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

当時、皇居内堀(日比谷濠)の東側の第一生命日比谷本店ビル「DNタワー21」に、GHQ本部があった。佐三は、追放理由を調べ、濡れ衣であることがわかると、GHQに直談判、猛烈に抗議した。おそらく堂々と抗議する佐三が珍しかったのだろう。結果、追放指定の解除を勝ち取ったのだった。

「汚れ仕事」で勝ち取ったGHQの信頼

タンクの底油回収は始めてみると、想像以上に困難な仕事だった。機械が使えないため、出光社員は自らタンクの底に降り油をさらった。体は石油まみれになり、引き上げられた時にはもれなく全身真っ黒になっている。長時間の作業に皮膚がただれることもザラだった。

『出光佐三 人生と仕事の心得』(宝島社新書)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします

放置された旧海軍のタンクにはどんな有毒ガスが滞留しているかもわからず、まさに命がけ、死と隣り合わせの作業だったのだが、出光社員は一丸となってこの仕事に邁進した。

くる日もくる日も社員自らがタンクの底に潜り、1年半で全量を汲み上げてしまう。不純物混じりの残油の値段はたかが知れており、人力頼みの作業効率に戦後の急激なインフレも手伝って、回収事業はビジネスとしては570万円の赤字に終わる。

しかし、この仕事は出光にカネでは買えない資産をもたらすことになった。戦後の困難克服の象徴として、社員団結の精神的支柱となったのである。この後、出光では難しい仕事にぶつかるたびに「タンク底にかえれ」を合言葉に一致団結してことにあたった。

さらに、がむしゃらに仕事に打ち込む社員の姿をGHQ高官が実見し、出光に対して敬意を持つようになっていたのである。それは国内の取引銀行の役員たちも同様だった。もちろん佐三がそこまで見越して仕事をとったわけではなく、まぐれ当たりのようなものである。

佐三は常々「私はしばしば神のご加護を受ける」と公言していたが、あるいはこの時もそんな気持ちだったかもしれない。約1000人の社員の心が1つになり、GHQに強烈な印象を与えたことは、戦後の出光復興に絶大な好影響を残すことになった。

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事