敗戦直後「800人を超える社員が唯一の財産」といい放った【出光の創業者】が下した"英断"の凄み
意趣返しというか、逆恨みというべきか、ここぞとばかりに佐三に嫌がらせをしたわけだ。
そうと知ると佐三も佐三で「そっちがその気ならもう頼まん」ということになり、自前で石油の仕事を探すことになるが、戦中ですら石油不足に苦労した日本に、終戦直後まとまった備蓄があるはずもなかった。
戦後初となる「石油関連の仕事」だったが…
ところがそんな折、佐三のもとに戦後初となる石油関連の仕事が舞い込んできた。昭和20年(1945)10月、「廃油を含む石油製品の在庫は内務省を通じて必要産業、消費者に正当なる機関によって配給せらるべき」という指令がGHQから発令された。
あわせて「タンクの底油を利用するように」という指示も出た。タンクとは徳山、佐世保など、旧海軍が保有していた計8か所の貯油タンクのことである。
ただちに内務省は石油配給統制会社にその業務をするよう募ったが、タンクの中は雨と泥で汚れ放題。機械で汲み上げることは叶わず、人力で汲み上げるという難作業である。石油タンクの残油回収、底ざらえは、さすがの佐三も経験したことがない厳しいものだった。
タンクは使用するうちに底部に油がこびりつくのだが、回収と再精製に大変な手間がかかるため、喉から手がでるほど石油を欲していた軍部でさえ放置していた。
GHQはそんなシロモノを有効活用するよう配給会社に指示を出したのだが、どの会社も尻込みして手を挙げるところがない。そこで名乗り出たのが出光だった。
貧乏くじのようなものとはいえ、石油の仕事に違いはない。佐三はこれを請け、北海道から佐世保まで、全国の旧海軍タンクの底油回収にあたることになり、8か所すべての貯油タンクに187人の社員を派遣した。
そうした状況の中、昭和21年(1946)、GHQは「公職追放令」を政府に託した。これは数百人の政治家や官僚、団体幹部、数千人の経営者や資本家をそのポストから追放し、一切の社会的活動を禁じるものである。なぜか、その経営者に佐三が含まれていた。

















