敗戦直後「800人を超える社員が唯一の財産」といい放った【出光の創業者】が下した"英断"の凄み
石油には特に厳しい政策が課せられ、原油輸入の禁止、製油所の操業停止といった屈辱的な命令が実行されている。
店員を1人もクビにせず、食わせるために手当たり次第になんでもやることにした。酢や油の醸造、水産、開墾、印刷などだ。
特にラジオ修理には力を注ぎ、クビどころか新たに元海軍の技術者を雇い入れてまで事業を拡大した。歌舞伎座横の出光本社5階が修理工場になり、全国を通じて50店ほどが経営されたが、さしたる儲けにはならなかった。
農園で鶏の卵がよく売れて儲かったと思っても、エサ代で赤字になるという始末で、佐三は資金を工面するため自ら借金し、あるいは集めた骨董品を手放して現金に換えた。
こうした事業の大半は赤字に終わり数年で撤退という結果になったが、「馘首せず」の大目標を達成するには十分すぎる意義があった。
そして、佐三の真の狙いは、こうした仕事を通して従業員1人ひとりを自立的な「経営型社員」に再教育するというところにもあった。またラジオ事業部の店舗は将来の漁船燃料油販売所への転用を見越して海岸に近い物件を探させるといった、周到な準備も欠かしていなかったのである。
終戦直後は、佐三のモットー「人間尊重」の真骨頂が発揮された時期だったのである。
"出光潰し"との戦いの日々
当時、出光は中国大陸に37か所、南方に6か所の海外店舗を有していた。他に朝鮮半島や台湾、船員などを含めると外勤者数は671人。さらに応召中の者が186人もいて、全社員1006人中、引き揚げが予想されたのは857人にも達していた。
タンクが燃え、資産を失った出光。石油事業から締め出され、ラジオ修理や農業、漁業、印刷など新しい事業で何とか食い扶持をつないでいった。
約1000人の社員の生活を守るため出光佐三は取れる仕事はなんでも取ったが、肝心の石油関連の仕事だけがいつまでも回ってこない。戦前に佐三の"統制嫌い"に翻弄されてきた石油会社の人間が石油配給政策の要職につき、出光外しを行っていたのである。

















