ノスタルジアは「自分が誰であり、何に従事し、(…)どこに向かうのかについての意識」(188頁)に深く関係している。「アイデンティティを構築し、維持し、再構築する終わりのない作業」(188頁)のための手段の一つなのだ。
私たちの前にある「生の現実」は混乱していて、無秩序で、意味不明である。アイデンティティを維持しようとしたら、どこか「投錨」できるところが必要だ。
私たちがアイデンティティを投錨できるのは個人的経験ではない。公共的なものである。過去に人々が共有していた平穏で安定的な共同幻想なら揺れ動くアイデンティティをしっかり保持してくれそうである。
広告に利用された「懐かしさ」
だから1970年にノスタルジアはビッグビジネスになった。
消費者たちに「商品との感傷的な絆」を形成することにこの時代の広告代理店は高度の技術を発揮した。「視聴者に子供時代の記憶を喚起しようとするのは70年代から80年代にかけての常套手段だった」(198頁)
そして、「遠い夏、母が飲ませてくれたのを思い出す」というタイプのコピーが怒涛のようにメディアを埋め尽くした。それは「ある商品は品質を保ち、周りの世界が移り変わっても同じままで安心、という考えが、この時代の広告に一貫して流れるテーマだった」(199頁)
でも、2000年代に入ってノスタルジアの様態が少し変わった。
英国においては、それは回顧される過去から革命的な60年代の記憶(公民権運動と学生運動とヒッピー・ムーブメントとウッドストックの記憶)が拭い去れていて、もっと以前の1940年代にまでノスタルジアの「投錨点」が遡行したことである。
Keep Calm and Carry On 「平常心を失わず、いつもの生活を続けろ」というのは戦時下、ドイツのV2の爆撃にさらされていた英国市民の士気を鼓舞するための標語だが、このポスターが2000年代に入って売れ始めた。
「戦時下の人々が示したとされる1940年代的なイギリス人の不屈の精神、平然としたふるまい、自制心、気丈さを思い出させた」(206頁)からである。
これは現実の政府の緊縮政策の歴史的意義を思い出させる効果があった。支出を控え、禁欲し、不自由に耐えることが美徳とされた時代に英国市民たちを連れ戻す効果があった。
人々がノスタルジアの投錨点をどこに求めるか、それは政治的に操作可能なのだ。それを学んだことでノスタルジアは消費行動から政治行動に活動範囲を拡大することになる。危険な兆候だ。
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