フォドールの話はこれで終わるのだけれど、著者がかなりの紙数を割いて(いささか皮肉な筆致ではあったが)彼の主張を細かく紹介したのは、たぶん「この人、面白いこと言うなあ」と思ったからだろう。私もそう思った。
ノスタルジアは「我執」である
ノスタルジアはたしかに退行的な心的過程である。成長して、外に出て、「寒い」世界と向き合うことを拒否するのだから。
それを「母親に対する無意識な執着と子供時代の理想化」と言うこともできるだろう。「それはさらにいえば自分自身に対する執着である(…)その狂信が一種の自己陶酔的で自己愛的な狂気を引き起こす場合がある」(154頁)
私はこの箇所につい赤鉛筆で線を引いてしまった。なるほど。ノスタルジアというのは「自分自身に対する執着」、仏教用語で言えば「我執」のことなのか。これは面白い解釈だ。この理路なら私にもよくわかる。
我執とは自分自身に釘付けになったまま、成長を拒否することである。「ほんとうの自分」がどこかにあり、それを見つけ出して、そこに腰を据えたら、あとは一生「そのまま」でよいというのが「アイデンティティの物語」である。近代の欧米で支配的になった自己についての一つの「お話」である。
日本でも20世紀の終わりから「自分さがしの旅」というようなことを教育行政が言い出した。そして、この30年ほどの間に瞬くうちに欧米的なこの「アイデンティティの物語」が支配的なイデオロギーになった。
その期間がそのまま「失われた30年」に相当し、その「アイデンティティの物語」の流れの末に「大日本帝国」に回帰する歴史修正主義者たちが登場してきたわけである。たぶんフォドールならこれらをまとめてノスタルジアの病態と解釈するだろう。
著者はフォドールについて総括的にこう書いている。
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