それを読んでイタリアでマクドナルドのローマ出店に反対して「スローフード」運動が起こったことを私は思い出した(また脇道に逸れた)。イタリアの産物だけを食材にし、イタリア伝統のレシピで作られた食事を食べようという運動である。
同じ運動が1930年代のドイツでもあった。こちらは「外国から輸入した食材は決して使わない」という極端なものだった。精白されていない玄麦パンを食べ、バナナもコーヒーも摂らず、ゲルマンの血の純潔を守ろうというのである。この運動はそのままナチズムに吸収された。
「過去」ではなく「現在」の不安
それから音楽のノスタルジア。これは私自身がそうだから身につまされる。
これはその通りだ。ブライアン・ウィルソンがグループを離れた後を埋めたブルース・ジョンストンの作曲した『ディズニー・ガール(1957)』はこの時期の最高傑作だが、タイトルにあるように1957年のアイゼンハウアー時代のアメリカの「小さな町」の黄金時代を切々と回顧している。わずか14年前なのに。
映画もそうだ。
『追憶』、『華麗なるギャツビー』、『スティング』、『アメリカン・グラフィティ』というような「黄金時代のアメリカ」を回顧するタイプの物語が欧米でも(そして日本でも)1970年代に選好された。いったい何が起きたのだろうか。
70年代の英国は「暗黒の10年」と呼ばれたほどに落ち目だった(日本と似ている。日本は「暗黒」の期間がその3倍続いているが)。著者はこれを「帝国としての力の衰退に対する一般の不満を反映していた」(183頁)と総括している。問題は過去にあるのではなく、現在にあるのだ。
それは「現在の恐怖、不満、不安、あるいは不確かさにほかならない」(186頁)。私もこの仮説に同意の一票を投じる。
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