僧侶の日常もまた、不自由に満ちています。
さまざまな箍をはめられて、昨日と同じ今日、今日と同じ明日がやってくるとわかっている。一般の方から見れば、さぞ退屈で、窮屈なことでしょう。
しかし、僧侶たちはこの生活にすっかり慣れていますから「つまらない」とも感じませんし、「なんでこんなことを?」とも思いません。それに、毎日同じ生活を送っているからこそ感じられる、ささやかな変化というものもあるのです。
それは、自分のなかの変化です。先ほど「身体が不自由になると心はかえって自由になる」とお話をしましたが、同じことが起きるのです。
例えば、昨日はつぼみの状態だった花が咲いた。昨日できなかったことができるようになった。そんな小さなうれしさが、一層うれしいのです。
坐禅が「心の感度」を高める
私がしばしば坐禅をおすすめするのは、その感覚を味わっていただきたいからでもあります。手足を不自由にすることで自由な心を手に入れる。そのための坐禅です。
私は、心が自由になるとは「有り難さをキャッチする感度が高まっている」状態ではないかと考えています。心が変わると世界の見え方まで変わるのです。
「閑坐聴松風(かんざしてしょうふうをきく)」という禅語があります。静かにすわり、風が松の葉をゆらす音を聴く、という意味です。
「閑坐聴松風」は、坐禅をしているときの感覚そのものです。まるで自然と一体になったかのように心が澄み切り、それまで聞こえなかった微かな音や、見えなかった色が感じられるようになります。
季節が移ろい、草木の葉が色合いを変える様を愛で、小鳥のさえずりや虫の音に耳を傾けることができるようになるのです。
そのときの清々しさときたらどうでしょう。
禅では「自然は真理が丸出しになった姿だ」と捉えます。人間とは違い、自然は一切の計らいごとなく、ただひたむきに、そこに存在している。自然に触れた人間が、計らいごとを忘れ、清々しい気持ちにさせられるのは、そのためではないでしょうか。
こうした感度をもって日常を送れる人は、退屈とは無縁です。
毎日が同じことの繰り返しのようでいて、実は1日として同じ日がないということをその身で理解しているからです。この世には何ひとつ当たり前のものなどなく、すべてが有り難いものだと知っているからです。
裏を返せば、人生が同じことの繰り返しのように感じられ、不平不満がたまりはじめたら、心の感度が落ちている兆候かもしれません。
私は普段「朝晩2回の坐禅が理想」とおすすめしていますが、本当はどんな形でも、どんなペースでも構いません。坐禅は、感謝と共に生きることを教えてくれるのです。
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