しかし、です。物質的に豊かになり、欲しいものが簡単に手に入る現代社会においては、ありがたさを感じる機会が失われつつあります。有り難いどころか、むしろ何もかも「当たり前」に感じられはしないでしょうか。
例えば、これまで病気ひとつせず、健康が当たり前になっている人に健康のありがたさを説いてもピンとこないでしょう。また、小中高大と親の援助のもと進学するのが当たり前だった人に、教育のありがたみはわからないはずです。
よく言われることですが「失ってはじめてありがたみがわかる」とは、本当にそのとおりだと思います。
大きな病気をして、入院をし、生活の自由を奪われてみると、健康というものがどれだけ価値のあるものだったかが、身に沁みてわかります。
また、親になり、子どもを育てる側になって初めて、「子どもに苦労をさせたくない」からと教育にお金をかけた親の気持ちがわかるのです。
健康の価値を理解するには、健康を失わないといけない。なんとも皮肉なことですが、人間はそのようなかたちでしか学ぶことができないのかもしれません。
どん底の暮らしを体験した修行時代
極論すれば、何不自由のない暮らしのありがたさを学ぶため、すべてを奪われたどん底の暮らしを味わう必要がある。
禅の修行は、その実践と言えるかもしれません。
雲水生活においては、それまでの当たり前がすべて奪われます。
睡眠時間は短く、坐禅中や正座中は足も伸ばせない。食事はというと、朝はおかゆにごま塩、たくあん2切れほど。お昼は麦の入ったご飯にお味噌汁、漬物が少々。夜はお昼と同じものに「別菜」という皿が加わるのですが、それも、がんもどきが2切れ、にんじんを煮たのが2切れ、ぐらいのものです。
修行僧たちはこれを、一口ずつ箸を置きながら、よく噛んで、ゆっくり食べるのです。
それは、あまりにも量が少ないために食べ終わるのが惜しいからでもあるのですが、食事をいただける有り難さを、ひと噛み、ひと噛み、味わうためでもあります。
食欲旺盛な若い雲水は皆、空腹で気が狂いそうになるほどです。
私はとにかく甘いものが食べたくなり、あんこが食べたい、砂糖が舐めたいと、そればかり考えていたのを覚えています。
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