「終活は60歳からがいい」と禅僧が勧める深い理由 「お金の相続」より大切な「心の相続」

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生きる 
死を思い煩ってはいけない。今この瞬間を生き切ること、それだけを考えていればいいのです(写真:tamakiii/PIXTA)
あれもこれもと心配ごとが多すぎて、身動きがとれなくなっているのが現代人。どうしたら、不安に囚われることなく、「今、この瞬間」を全力で生きることができるのでしょう。
新著『考えすぎないコツ』では、禅僧であり世界的な庭園デザイナーでもある枡野俊明さんが、「頭をからっぽにして、心を無の状態にする」ためのヒントを解きます。
本稿では、同書から一部を抜粋してお届けします。

大切な人を「見送る」ときに考えること

曹洞宗を開いた道元禅師が、こんな言葉を残しています。

『考えすぎないコツ:「気づいて」「ほどいて」「放っておく」人生を軽くするシンプルな本質』書影
『考えすぎないコツ』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら。楽天サイトの紙版はこちら、電子版はこちら

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり」(「正法眼蔵』の「現成公案」)

ここに「前後際断(ぜんごさいだん)」という言葉があります。

私たちは、薪と灰を見ればつい、薪が前の姿であり、灰は後の姿であるというふうに、薪と灰をひと続きのものとして捉えるのがならいです。

それではいけない」とするのが道元禅師です。薪は薪として、灰は灰として完結しており、薪と灰は連続していない。つまり前後は断ち切れているのだと道元禅師は説きます。

同じことが、生と死の関係においても言えます。

死は生の後の姿ではなく、死は生の後の姿でもない。生の延長線上に死があるのではなく、生と死は断ち切れています

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