道元禅師ならば、こう言うかもしれません。
生きているうちは、「生き切る」ほかない。生きているうちに死を思っても意味がないのだから。そして、生き切った末に死が訪れたら、それを受け入れるしかない。そこで生が完結するのだから。
私たちは皆、いずれ死を迎える運命にあります。
しかし死を思い煩ってはいけない。今この瞬間を生き切ること、それだけを考えていればいいのです。
仕事でも、勉強でも、趣味でもいい、今この瞬間にするべきことを全うすることです。裏を返せば、それ以外の、自分の采配ではどうにもならないことをどうにかしようとするから、迷ったり不安になるのです。
思い通りにならないことは、仏様にお任せする他ありません。
良寛さんは、大地震にあった知人への見舞い状に、こんな言葉を記しました。
「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」
死ぬときがきたら、ただ死んでいけばよい。何も思い煩うことはないのです。
他人の死から自分の生を見つめ直す
問題は、何をもって「よく生きる」とするのか、です。
その答えはもちろん百者百様ですが、少なくとも、自分にとっての「よく生きる」を考える機会を持たなくては、答えを出せません。
身近な人の「死」は、そんな機会のひとつです。
長く生きれば生きるだけ、愛する家族や友人たちの「死」に触れる機会が増えていきます。大切な人の死はしばしば、残された人々の人生を大きく変えてしまいます。
深い悲しみを背負うから、のみではありません。大切な人を見送るという体験を通じて、自分の生を見つめ直すからです。
人は、頭では「いつ死ぬかどうかわからない」ことを理解しています。
しかし同時に、「明日も今日と同じ日が続く」ものと楽観してはいないでしょうか。ところが身近な人の死は、私たちに「今日と同じ明日がこないかもしれない」という事実をつきつけるのです。
それはまるで、故人からの「あなたはこれから、どうやって生きていく?」という問いかけのようです。
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