私が申し上げたいのは、残された人々にはやるべきことがある、ということです。
例えば、故人の思い出を語り合うこともそうです。仏教では、人の死には2種類あると考えられています。
1つは肉体の死。もうひとつは、遺族や近親者、友人の心から故人が消えるときの死です。
これは、「たとえ肉体が滅びようと、人々の心に残る限り、生き続ける」ということを意味します。ですから、故人の思い出を語り合うことは、故人を2度めの死から救うことでもあるはず。
残された人々もまた、こうした語らいを通じて「大切な人が亡くなった」という事実を受け止め、悲しみに区切りをつけることができます。
そして、故人の人生を思い、自身のこれからの人生を思うことも、残された人間の務め。
「あなたはこれから、どうやって生きていく?」
故人が遺した問いかけに、あなたならどう答えるでしょうか。
「死に支度」は元気なうちに
人生を「生き切る」とは、言い換えれば「思い残し」をなくすことでもあります。
そのための準備のひとつが、「死に支度」です。最近は「終活」という言葉がポピュラーかもしれませんが、言わんとしているのは同じです。
死に支度というと、死を目前にした人がするものというイメージがあるかもしれません。
しかし私に言わせれば、死に仕度は元気なうちに始めるのがいい。目安としては、50歳から人生の終わりを見据えつつ、60歳から具体的に死に支度に動き始めるぐらいが、ちょうどいいでしょう。
現実的な問題として、老いが進み、病を得てからでは、満足な死に仕度はできません。60歳ならまだ、行きたいところに行き、食べたいものを食べ、会いたい人に会いにいくだけの気力体力があるでしょう。
「死に支度なんて縁起でもない、気が進まない」という気持ちはわかります。
しかし「いつ死ぬかわからない」という事実から目を背けていては、死の恐怖もかえって募るというもの。逆に、死に支度を早めに済ませた人からは、「残りの日々を思うと、人生が愛おしくなってきた」という声が聞こえてきます。
死に支度は確かに死ぬための備えですが、同時に、死ぬまでの日々を有意義に生きるための備えでもあるのです。
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