「毎日が退屈」現代人に僧侶が勧める考え方のコツ 「ありがたい」の回数が"人生の質"を決める

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「ありがたさ」の話を、もう少し続けたいと思います。

ブッダの生涯に、こんなエピソードがあります。

ブッダこそは、いわゆる「繊細さん」の元祖かもしれません。人はなぜ生まれ、老い、病で倒れ、死に至るのか。やっとの思いで土からはいでた虫を鳥がついばみ、その鳥もまた別の動物のえじきになるのはなぜか。思い詰めた若きブッダ(シッダルタ)は、ついに出家を決意します。

悟りを開くには苦行が必要だ」と教えられたブッダでしたが、悟りを開けないままやせ細っていきました。

川で沐浴をしていると、村の娘スジャータが乳粥をもってきました。乳粥を口にしたブッダは活力を取り戻し、菩提樹の木の下で坐禅を組みました。坐禅をして8日目、明けの明星を見たときに、ブッダは悟りを開いたと伝えられています。

自分が生きてこの世に存在していることが、何よりも素晴らしい。そこに気づくことがブッダの「悟り」でした。

ブッダは坐禅で悟りを開いた

ここで目を向けたいのは、ブッダは苦行ではなく坐禅によって悟りを開いたという点です。これは、毎日坐禅を組む習慣を持つ人には、よくわかることです。

というのも、坐禅をしていると「ああしたい、こうしたい」とか「ああしなければ、こうしなければ」といった、私たちの心を囚えている煩悩が晴れていくのです。

足も手も固定されて、いかにも不自由な姿をしているのに、心は次第に自由になっていく。私の解釈では、足も手も不自由「だからこそ」心は自由になるのです。

もし、手足が自由で好きなことを好きなようにできると、心は手足に囚われてしまうでしょう。

そうであるならば、手足の自由を奪えばいい。すると煩悩はあらわれず、無心の状態に近づいていける。一点の曇りのない澄んだ心、すなわち仏性が露になる。ありのままの自分が、ありのままの世界に触れることができる

ブッダに「今、生きていることが有り難い」という気づきがもたらされたのは、そのときでした。

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