大河主役「蔦屋重三郎」苦難を飛躍に変えるスゴさ 江戸のメディア王と呼ばれ名作を世に送り出す
吉原の地で生まれ育った重三郎が、小さな書店「耕書堂(こうしょどう)」を開業したのは安永元(1772)年、22歳のときのことである。義理の兄・蔦屋次郎兵衛の軒先を借りるかたちで、吉原大門口の五十間道に面した場所で開業。翌年には出版業をスタートさせている。
転機となったのは、吉原の案内書「吉原細見」の出版に乗り出したことである。いわゆる吉原のガイドブックだ。他社の「吉原細見」と差別化を図るべく、重三郎はレイアウトにいろいろな工夫を施した。吉原の内部を上下に分けて、遊女屋の並びを記すことで、使い勝手を良くしたのである。
さらに重三郎は従来の小型版から中型本へとサイズを変更。「利用者にとっていかに使いやすくするか」にこだわって、これまでにない「吉原細見」を完成させた。
その結果、重三郎の「吉原細見」は飛ぶように売れた。多くの読者に支持されて、シェアを拡大。開業してから約10年が経った天明3(1783)年には、蔦屋版の「吉原細見」が独占状態になった。
危機は路線変更の好機となる
アイデア一つで、現状を大きく変えることができるのが、ビジネスの面白いところだ。起業して間もない頃の成功体験は幾度となく、重三郎の背中を押すことになった。その後、重三郎はさまざまな分野の本を出版して、事業を拡大させていくことになる。
老中・松平定信の「寛政の改革」は、そんな重三郎の活躍を阻むものだったが、長い目でみれば、路線変更を図る好機となったようだ。重三郎が目をつけたのは「浮世絵」の出版である。
こうなったら歌麿、写楽に賭けようじゃないか――。
そんな心持ちだったに違いない。降りかかった苦難をも飛躍のきっかけとし、重三郎は浮世絵プロデューサーとしての道を歩み始めることとなった。
【参考文献】
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』 (平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
後藤一朗『田沼意次 その虚実』(清水書院)
藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『なにかと人間くさい徳川将軍』(彩図社)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら