大河主役「蔦屋重三郎」苦難を飛躍に変えるスゴさ 江戸のメディア王と呼ばれ名作を世に送り出す
しかしながら、いくら財政改革のためとはいえ、定信の倹約令はあまりに厳しかった。高級な菓子や子どものおもちゃ、障子の張り替えなども、ぜいたくとして規制している。女性が髪を結うことまで禁じたというから、明らかにやりすぎだ。
そんな定信からすれば、出版社による政治風刺などもってのほかである。定信の鋭い視線は、ある男をとらえて離さなかったようだ。
その男こそが、軽妙な文学作品を出版し、ベストセラーを連発していた蔦谷重三郎である。重三郎が刊行した出版物には、世相や政治を揶揄する風刺を盛り込まれたものが多く、幕府からすれば不愉快な内容だったに違いない。
目立つ相手を処罰して見せしめにするのは、いつの時代も同じである。重三郎の奔放な出版活動は幕府から問題視され、「身上に応じて重過料」、つまり、身分や財産に応じた罰金刑が科せられることになった。
幕府からの罰金刑によって、出版業が立ち行かなくなるほど、重三郎は経営的なダメージを受けたわけではない。それでも、今後の出版活動に影響が出ることは避けられない。これまでと同じやり方では、また取り締まられてしまうからだ。
危機に直面したときには、いったん原点に戻ってみると、やるべきことを見えてきたりする。重三郎もまた、出版事業の路線変更を強いられるなかで、これまでの歩みを思い返していたのではないだろうか。
吉原で引手茶屋を営む蔦屋に養子入り
重三郎は寛延3(1750)年正月7日、父・丸山重助と母・津与の子として、新吉原で生まれたとされている。9代将軍の徳川家重の治世にあたる頃で、家重が田沼意次を抜擢していくなかで、重三郎は青年へと成長を遂げていく。
父の重助は尾張出身で、職業は不明だが、吉原で何かしらの仕事をしていたのであろう。吉原は遊郭として有名だが、遊女屋を中心にしながらも、飲食店などもひしめいていた。
重三郎が7歳のときに母が丸山家を出て、両親は離別。吉原で引手茶屋を営む「蔦屋」へと、重三郎は養子入りすることになった。
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