蔦屋重三郎「売れる狂歌本」出すために取った戦略 「狂歌ブーム」の天明期に蔦重が仕掛けたこと

江戸で売れる狂歌本を作るためには…
蔦屋重三郎が生きた天明年間(1781〜1789)に江戸で大流行した狂歌(風刺・滑稽・皮肉を盛り込んだ短歌)。
とは言え、天明年間初期の狂歌に関する書籍の出版数は、10種程度。そのなかで、江戸の出版社が刊行しているのは、わずか4種でした。
そのような状態だったため、江戸で良質の狂歌本を刊行すれば、沢山売れて、多くの利益を得ることができる。そう考える出版人がいても、おかしくはありません。
その中には、おそらく、蔦屋重三郎もいたことでしょう。良い狂歌本を刊行するには、何が必要か。それは、鋭敏な狂歌師と組んで、狂歌本を創り上げることが肝要でした。
重三郎が組もうとした狂歌師、戯作者は大田南畝(四方赤良)です。大田は幕臣でしたが、狂歌・黄表紙・洒落本・随筆・評論文の執筆などさまざまな創作活動に従事していました。
蔦屋(重三郎)と大田とは、安永9年(1780)の段階ですでにつながりがあったとされています。同年、蔦屋から『虚言八百万八伝』という黄表紙が刊行されていますが、その書籍の作者は「四方屋本太郎正直」、彼こそ、大田だという説があるのです(一方、四方屋は、大田ではないという見解もあり)。
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