蔦屋重三郎「売れる狂歌本」出すために取った戦略 「狂歌ブーム」の天明期に蔦重が仕掛けたこと

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎 大田南畝
吉原神社(九郎助稲荷神社)(写真:Masa / PIXTA)
今年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は重三郎が良質な狂歌本を刊行するために取った戦略を解説します。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

江戸で売れる狂歌本を作るためには…

蔦屋重三郎が生きた天明年間(1781〜1789)に江戸で大流行した狂歌(風刺・滑稽・皮肉を盛り込んだ短歌)。

とは言え、天明年間初期の狂歌に関する書籍の出版数は、10種程度。そのなかで、江戸の出版社が刊行しているのは、わずか4種でした。

そのような状態だったため、江戸で良質の狂歌本を刊行すれば、沢山売れて、多くの利益を得ることができる。そう考える出版人がいても、おかしくはありません。

その中には、おそらく、蔦屋重三郎もいたことでしょう。良い狂歌本を刊行するには、何が必要か。それは、鋭敏な狂歌師と組んで、狂歌本を創り上げることが肝要でした。

重三郎が組もうとした狂歌師、戯作者は大田南畝(四方赤良)です。大田は幕臣でしたが、狂歌・黄表紙・洒落本・随筆・評論文の執筆などさまざまな創作活動に従事していました。

蔦屋(重三郎)と大田とは、安永9年(1780)の段階ですでにつながりがあったとされています。同年、蔦屋から『虚言八百万八伝』という黄表紙が刊行されていますが、その書籍の作者は「四方屋本太郎正直」、彼こそ、大田だという説があるのです(一方、四方屋は、大田ではないという見解もあり)。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事