蔦屋重三郎「売れる狂歌本」出すために取った戦略 「狂歌ブーム」の天明期に蔦重が仕掛けたこと

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もし、四方屋が、大田だという説に立てば、安永9年の段階で、蔦屋と大田はつながりを有していたと言えましょう。

一方で、安永9年に両者に接点がなかったとしても、天明元年(1781)には、2人は顔を合わせていることは確実です。大田の日記『丙子掌記』に、重三郎が大田を訪ねてきたことが垣間見えるからです。

同年、大田は黄表紙作品評『菊寿草』を刊行していますが、その中では、蔦屋が刊行した朋誠堂喜三二の作品についても、触れられています。それが機縁となって、蔦屋重三郎は大田を訪ねたというのです。それ以降、重三郎と大田は交流を深めていきます。

天明2年(1782)3月には、今度は、大田が重三郎のもとを訪問しています(帰りは駕籠で送ってもらったようです。今風に言えば、送迎タクシーを手配してくれたということでしょう)。

さらに同年12月には、大田・恋川春町・北尾重政・北尾政演・北尾政美などが蔦屋に集合しています。天明3年(1783)正月7日には、大田と重三郎らは複数人で狂歌を詠んでいますし、天明5年(1785)10月には、重三郎主催の狂歌会が開催されているのです(この会には大田や山東京伝らが出席しました)。

大田南畝らと交流を深めた蔦重

ジワリジワリと、重三郎が大田らと親交を深めていることがわかります。狂歌というものは、個人個人のその時の感興(興味)によって、詠むべきものとする見解が当時ありました。そうした考えを持つ者からすれば、複数人で集まって、狂歌を詠むなどというのは「痴れ者」(馬鹿者)の所業でした(『狂歌若葉集』を編纂した唐衣橘洲などは、そうした考えに立っていました)。

しかし、重三郎や大田らは、その真逆をいったのです。皆で集まって、狂歌を詠み合う。それが「天明狂歌」の特徴でした。そうした狂歌の歌会には、狂歌師や戯作者、浮世絵師、出版人など、さまざまな人々が集いました。一種のサロン(社交的な集まり)が形成されたのです。

大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎 大田南畝
吉原大門・見返り柳(写真:Masa / PIXTA)

良い書籍を刊行するには、良い作者が欠かせない。長年、出版業に携わってきた重三郎には、そのことは痛いほどよく分かっていたでしょう。良質な作者と仕事をするためには、当然ですが、信頼関係を築いていくことも重要です。そのため、重三郎は歌会を主催し、多くの文化人と交流を深めたのだと思われます。

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