蔦屋重三郎が競合ひしめく中で「狂歌界」に進出できた"納得の事情"
文化人らと交流を深めた蔦重
江戸時代の出版人・蔦屋重三郎は、大田南畝(四方赤良)ら文化人と狂歌を詠む会を開き、交流を深めていきました。
狂歌会や交流会は、重三郎が生まれ育った吉原で開催されることが多かったのですが、度を越した接待は家族にとっては迷惑だったようで、重三郎の妻が「人の言うことも聞きもしねえで、そんなら、どうとも好きにしたがいい」と啖呵を切ったという逸話も伝わっています(『艶本枕言葉』1785年)。
天明3年(1783)1月には、『狂歌若葉集』(編者は唐衣橘洲)、『万載狂歌集』(編者は四方赤良ら)という2つの狂歌集が刊行され、話題を呼んでいましたが、重三郎も流行に乗り遅れまいと、同年3月に狂歌関連の書物を出版しています。それは、狂歌集ではなく、狂歌の手引書『浜のきさご』でした。
狂歌集が相次いで刊行されたから「ウチでも狂歌集を」というのではなく、手引書というところに、蔦屋の工夫を感じることができます。


















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