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蔦屋重三郎が競合ひしめく中で「狂歌界」に進出できた"納得の事情"

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2人の和解の影には、1人の大物文化人、画家がいたのではと推測する向きもあります。その大物とは、酒井抱一(1761〜1829)です。播磨姫路城主・酒井忠以の弟であった抱一。彼は、俳諧・和歌・連歌・書・能など諸芸を嗜みますが、尾形光琳に傾倒し、光琳を基にした独自の画風を展開したことで知られています。

大名の酒井家に生まれた抱一と、戯作者で蔦屋から黄表紙を出していた朋誠堂喜三二(出羽久保田藩【秋田県】江戸藩邸の留守居役)は、知り合いでした。蔦屋重三郎は、朋誠堂喜三二を介して、酒井抱一に、両者(赤良と橘洲)和解の仲介の労をとってもらったのではないかと推測されているのです。蔦屋から刊行された『俳優風』の狂歌師最高位に酒井抱一が位置付けられていることから、そのように推測されています。

天明5年(1785)の冬に蔦屋から刊行された『狂歌百鬼夜狂』にも、赤良と橘洲は、狂歌や跋文(あとがき)を寄せています。重三郎は、狂歌界の2大巨頭の和解に一役買ったのでした。

先を見据えて行動した蔦重

さて、『狂歌若葉集』は前川六左衛門、『万載狂歌集』は須原屋伊八という江戸の書物問屋の大手が刊行し、狂歌界にインパクトを与えましたが、そこに絵双紙類を刊行してきた「地本問屋」蔦屋が参入します。

前川や須原屋は、「書物問屋」といって、儒学書・歴史書・医学書などのお堅い書物を扱っていました(俳諧書や狂歌本も出版していた)。狂歌本を出すことで、「書物問屋」の領域という概念を、蔦屋重三郎は打ち破ったのです。ほかの「地本問屋」も狂歌本を刊行しようとしますが、狂歌界の重要メンバーは、蔦屋にすでに押さえられていました。先を見据えて、先手を打って行動してきたことが実を結んだ瞬間でした。

(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)

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