蔦屋重三郎が競合ひしめく中で「狂歌界」に進出できた"納得の事情"

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天明4年(1784)にも、蔦屋は挿絵を入れた狂歌集や狂歌関連書籍を刊行しています。それらは、大ヒットはしませんでした。が、四方赤良がそれらの書籍に絡んでいたと言われるので、蔦屋と四方赤良との関係はより一段と緊密さを増していたといえるでしょう。狂歌会・交流会を何度も開催した甲斐があったというものです。

狂歌の書籍を大当たりさせたいという重三郎の願いがかなうのは、天明5年(1785)のことでした。この年に蔦屋から刊行されたのが、『故混馬鹿集』(ここんばかしゅう)というふざけた書名の狂歌集。狂歌師・戯作者の朱楽菅江が編者となっています。

ちなみに、菅江は幕臣でしたが、和歌を詠み、そして洒落本なども刊行していました。狂歌の方面にも手を出し、門人も出来て、そのグループは「朱楽連」と称されました。朱楽菅江(あけらかんこう)は当然、本名ではなく、狂名(狂歌の作者としての号)ですが、「あっけらかん」をもじったものと言われています。

ふざけた狂名の作者が出した、ふざけた書名の狂歌集『故混馬鹿集』。同書は、菅江や四方赤良、唐衣橘洲らの狂歌千百余首を収録したものです。菅江の仮名序、赤良の真名序が添えられており、『古今和歌集』(平安時代初期に成立した最初の勅撰和歌集。紀貫之らが撰者)に似た体裁となっています。

『故混馬鹿集』はヒット作となり、天明狂歌の5大撰集の1つに数えられます。『故混馬鹿集』が刊行された天明5年(1785)、蔦屋からは『狂歌評判俳優風』という書籍も刊行されているのですが、その編者には、朱楽菅江や四方赤良のほかに、唐衣橘洲も名を連ねています。

ライバル関係だった唐衣橘洲と四方赤良

唐衣橘洲と四方赤良は、一種のライバル関係、対立関係にありました。橘洲は『狂歌若葉集』のなかで、四方赤良の作品を公然と非難したほどです。

しかし、2人の対決は、四方赤良側の勝利に終わり、橘洲は一線から身を退いていました。

大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎 大田南畝
大田南畝(四方赤良)の水鉢(写真: mandegan / PIXTA)

『狂歌若葉集』と『万載狂歌集』が刊行された天明3年(1783)中には、2人の仲は、改善していたのではとする見解(『狂歌師細見』1783年刊行)もありますが、真の和解までには、もう少し時間が必要だったのではとする説も存在します。

天明5年(1785)8月5日に、前述の『狂歌評判俳優風』が刊行されるのですが、それまでに開催された編集会議に、橘洲や赤良らが集ったときこそ、2人のわだかまりが本当に解けたときではないかとする見解もあるのです。

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