蔦屋重三郎「売れる狂歌本」出すために取った戦略 「狂歌ブーム」の天明期に蔦重が仕掛けたこと
しかし、そうした「営利目的」だけで近付いても、それは相手に見透かされてしまい、逆効果ということもあります。やはり、重三郎は、歌会などの文化的な雰囲気や、創作活動というものが好きだったのでしょう。
重三郎は「蔦唐丸」という狂歌名を持ち、狂歌を詠んでいました。彼はただ、歌会を主催するだけでなく、狂歌師などと一緒になって、歌会を開催し、作歌を楽しんでいたのです。
吉原で文化人との交流を盛んに行った
重三郎のこうした振る舞いを「歌会で遊ぶ仲間になるための手段」「手練手管を用いて、歌会外交を繰り広げていく」(松木寛『蔦屋重三郎』講談社、2002年)と評する向きもあります。その見解を否定するつもりは毛頭ありませんが、重三郎の内心には、そうした下心以外のものもあったように、私には思えてなりません。
重三郎と文化人との交流は、吉原の妓楼で行われました。吉原で生まれ育った重三郎にとって、吉原は自分の庭のようなものだったでしょう。サッカーの試合にしても「アウェイ」(相手の本拠地、敵地)よりも、自国(地元)での試合のほうが有利ということは、よく言われることです。重三郎は、自らの利点を最大限活かして、仕事に邁進したのでした。
(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
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