
藤原彰子ゆかりの国宝がある比叡山延暦寺(写真: でじたるらぶ / PIXTA)
ついに先週でフィナーレを迎えたNHK大河ドラマ「光る君へ」。まだ紫式部や藤原道長が生きた平安時代に浸りたい人もいることだろう。ドラマで異彩を放ったのが、藤原道長の長女にして、一条天皇の中宮・彰子である。引っ込み思案な彰子は「賢后」と讃えられるほどの成長を見せるが、道長の死後は批判されるような振る舞いもあったようだ。連載の番外編として解説を行っていきたい。
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人事を決めるのに頼通が気を遣った相手
「去る夕方の官職任命の儀式は、散楽のようでした」
散楽とは、こっけいな動作や曲芸など多種多様な芸の総称である。官職任命の儀式が持つ厳かさとは対極にあるはずだが、参加者からそんな声が漏れたのも無理はない。
寛仁元(1017)年3月、藤原頼通は数え年で26歳と史上最年少で、父の藤原道長から摂政の座を引き継いだものの、政務において何かと父を頼っていた。
官職を任命する「除目の儀」が8月に行われると、宇治にいる道長に頼通が何度も使者を出してバタバタしたという。「散楽のようだ」と呆れられるはずだ。
それだけに、道長が万寿4年12月4日(1028年1月3日) に亡くなると「これで頼通がいかんなくリーダーシップを発揮する環境が整った」と、周囲は考えたことだろう。しかも、この時点で頼通が摂政となり10年以上の月日が経っている。経験もそれなりに積めたはずだ。
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