『栄花物語』によると、後一条天皇が若くして亡くなったことで、彰子は妹の威子と嘆き悲しんだ。彰子はこんな歌を残している。
「一声も君につげなんほととぎすこの五月雨はやみにまどふと」
(一声だけでも、亡き我が君に伝えてほしい、ほととぎすよ。この五月雨で、子を思う闇に惑っていると)
そのうえ、悲嘆のあまり食欲不振に陥った威子までもが、38歳の若さで亡くなってしまった。彰子はたて続けに家族を失うことになった。
後一条天皇のあとには、弟で28歳の敦良親王が第69代・後朱雀天皇として即位。彰子が引き続き、政務への後見を務めたが、即位して10年足らずの寛徳2年1月18日(1045年2月7日)、37歳で命を落としている。
彰子は2人の息子(後一条天皇・後朱雀天皇)に先立たれたうえに、永承元(1046)年正月には、時に辛口でありながらも彰子を高く評価していた、右大臣の実資が90歳で没している。何とも心細い思いがしたに違いない。
政治力を発揮し87歳まで長生きをした
後朱雀天皇は道長の6女である嬉子との間に親仁親王を、三条天皇の皇女・禎子内親王との間に尊仁親王をもうけている。のちに親仁親王が第70代・後冷泉天皇として即位。さらにその後は、尊仁親王が第71代・後三条天皇として即位する。
孫にあたる後冷泉天皇のときも、後三条天皇のときも、后の決定には彰子がかかわっていたというからすさまじい。後三条天皇のあとは、第1皇子が白河天皇として延久4(1073)年に即位。彰子が亡くなったのは、その翌年、承保元(1074)年のことである。
道長の姉である詮子に次ぐ2人目の女院として、長きにわたって国政を陰に陽に支えた彰子。87歳でその激動の生涯を閉じることとなった。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば』 (ミネルヴァ日本評伝選)
服藤早苗『藤原彰子』(吉川弘文館)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら