気遣いあふれる彰子は、いつしか父の道長に対しても、ただ「怨み奉る」だけではなく、言うべきことをはっきりと言う女性に成長していた。
長和2(1013)年2月、道長が「1人ずつ何か1種類、食べ物を持ち寄ることにして、彰子の御所で宴会を開催しよう」と呼びかけると、彰子はこう言い切ったという。
「最近、中宮・妍子の御所で連日宴会が開かれており、参加の公卿に負担を強いることになっている。今は、権力を握っている父・道長が居るので、皆へつらい従っているが、死んだ後にはみな非難するに違いない。中止すべきである」
父だけではなく、妹の妍子の宴会好きなところにも苦言を呈しながら、道長主催の「持ち寄りパーティ」を中止に追い込んでいる。これには実資も「賢后と申すべきである」と日記で称賛した。その後、わが子である後一条天皇の成長に安心したのか、万寿3(1026)年に彰子は39歳で出家を果たしている。
だが、道長の死後数年が経った長元4(1031)年、彰子が行った石清水八幡宮・住吉社・四天王寺への御幸は、ずいぶん豪華だったらしい。参加者たちの華美な服装や、荘厳な船の様子に、娘にせがまれてやむなく見学に来た実資は「多くは遊楽のためか。世間の人々は驚くばかりだ」と呆れて、さらにこう言っている。
「狂乱の極みというのは、このことを言うのであろう」
彰子らしからぬ贅沢さは、道長の姉で最初の女院となった藤原詮子の参詣を見習ったものだったらしい。その後、彰子は民に負担を強いるようなことは行っていない。
けれども、実資がこれだけ厳しく批判したのは、この頃から、頼通が不在時には自分が代理を務める立場となっていたことと無関係ではないだろう。「民がどう思うか」と、かつて彰子が道長に厳しい視線を注いだような目で、実資は彰子のことを見ていたのかもしれない。
二人の皇子に先立たれてしまう
長元9年4月17日(1036年5月15日)、彰子は息子・後一条天皇に先立たれてしまう。『栄花物語』によると、後一条天皇もまた道長と同様に、口が渇いて水を大量に飲んだという。糖尿病だったのだろう。
後一条天皇のもとには、彰子にとっては妹で、道長が倫子との間にできた3女の威子が嫁いでいた。皇女は生まれるものの、皇子が誕生しなかったため、威子は肩身の狭い思いをしていたが、後一条天皇は優しく慰めたという。
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