ところが、道長没後で初となる京官の除目において、頼通は意外なことを口にしている。『小右記』(8月25日付)によると、藤原実資が自分の養子である資平を昇進させてほしいと、頼通に働きかけたところ、こんなふうに言われたというのだ。
「意向は許容したが、なお女院に申すように」
女院とは、道長の長女で後一条天皇の生母である彰子のことだ。父が亡くなったら、今度は姉の顔色をうかがう頼通。優柔不断な頼通の性格もあるが、彰子の影響力は、人事におよぶほど大きかったようだ。
人間味あふれる彰子の魅力とは?
歴史人物がどんな性格だったのかは、行動から読み解くほかないが、史料で表現されている場合もある。
彰子の場合は『紫式部日記』で「何一つ不足なところはなく、上品で奥ゆかしくていらっしゃるのですが、あまりにも控え目な性格」と紫式部が書いている。
だが、それと同時に、彰子がただ大人しかったわけではないこともまた『紫式部日記』から読み取れる。教養のある一条天皇に見合う女性になろうとしたのだろう。自ら希望して、誰にも見られないような環境で、式部に漢文を教えてもらっていたようだ。
また、道長が一条天皇の第1皇子である敦康親王ではなく、自身の孫である第2皇子の敦成親王を皇太子にするべく働きかけたときには、彰子は父の身勝手さに失望したようだ。彰子は「丞相(道長)を怨み奉った」と、道長の側近である藤原行成が日記に残している。
自分の子どもが皇太子になる喜びよりも、養母として幼い頃から面倒を見た敦康親王の立場を同情する……彰子にはそういう優しいところがあった。
長和元(1012)年5月には、彰子は亡き一条天皇のために、法華八講を行う。数日かけて営まれる大掛かりな法会にもかかわらず、欠かさず参加した実資に対して、彰子はこんな感謝の言葉を伝えた。
「お追従をしない実資が、八講に日々来訪してくれて、大変悦びに思う」
さらに彰子の「故院の一周忌が終わって、部屋の室礼が喪中から日常に変わったことがしっくりせず、ものさびしい」という言葉も聞くと、実資は女房たちの目の前で涙したという。
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