なぜ、オリンピックの判定やルールに不満を感じるのか
先日閉会したパリオリンピック。日本選手団は金メダル20個と大変な成果を上げたが、手に汗握って競技を見ていた皆さんにとっては、色々とフラストレーションが溜まった大会だったのではないだろうか。それは選手のパフォーマンスが不甲斐なかったからではない。皆さんは、判定やルールに対して不満を持つことも多かったのではなかろうか。
オリンピックでは、なぜ疑惑の判定が頻出したり、ルールに理不尽さを感じることが多いのだろうか。その理由は、心理学的には単純明快である。私たちが熱くなって見ているから、である。
世界中の猛者たちが頂点を競い合うスポーツにおいて、ルールの力は絶大である。ルールがなくなれば、ボクシングも柔道もレスリングも分化し得ない。ルールなしには、それは単なるしばき合いである。ルールがなくなれば、サッカー、ハンドボール、ラグビーも分化し得ない。どんな手段を通じてでも、ボールをゴールに押し込むだけの競技だ。
その競技が成立するためには、その競技を固有たらしめるルール(手を使ってはいけない、殴ってはいけない等々)が必要不可欠である。だからこそ、ルールは絶対なのである。選手たちはそのルールに自らを適用させ、その中で競技成績が最善になるよう努力するほかはないのだ。
一方で、門外漢たる我々視聴者は、4年に1度だけ、その独特のルールに支配された世界を覗き見することになる。「どうしてこんなルールなの?」「審判の判定はあれで正しいの?」と感じるのも、自然なことだというのが、分かってきただろうか。
さらに、オリンピックは国別対抗戦である。視聴者は、熱くなっている。結果に納得がいかず、それでも選手を責めることができないとすれば、不満のはけ口はルールや審判(ひどい場合には、相手の競技者)に向かうことになるのである。
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