「人の本性は悪」ではない!「性悪説」の正しい意味 荀子の真意は「人間にはルールと恩賞が必要」
性悪説は「人を疑ってかかれ」ではない
中国思想の講義を担当していると、たまに学生から面白い話が聞ける。その一つとして出てきたのが、某テレビ番組における「性善説vs.性悪説」という企画である。
筆者は直接視聴していた訳ではないのだが、要するに人間を信用してかかるか、疑ってかかるかという議論をしていたらしい。番組の内容はともかく、そうした性善説や性悪説の(意図的な?)誤解はたまに耳にするから、一定数そうした理解が定着しているのだろう。
確かに、人間は人づきあいをし、組織に所属する中で、少なからず喜びや失望を感じる。そんなとき、「人間」という大きな主語で、信用できるかできないかを考えることはよくある。そこにそれらしく性善説と性悪説と名づけることで、何となく証明された気持ちになる。
とはいえ、それはあくまでも個人的な喜びや失望を、理屈で正当化しているだけで、あまり意味がない。みんなを信用してかかれば痛い目に遭うし、みんなを疑ってかかれば社会生活を送れない。そんなことは自明であり、どちらも間違いだからだ。
では、本当の性善説と性悪説はどんな議論なのか。性善説については以前解説した。そこで、性悪説の意味を簡単に紹介してみたい。
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