これだけでも貴重な情報だが、この記載から2カ月後の4月25日、宣孝は40代半ばから後半にかけて死去したとみられている。どうも、ただの痔ではなかったようだ。
例えば、大腸がんの場合、早期には自覚症状がほとんどなく、進行すると便に出血が見られたりする。痔の症状と似ているため、放置しがちなのは現在でもよくあることだ。
宣孝の死因については諸説ある。疫病に罹患しての急逝ともいわれるが、もしかしたら、大腸がんのような下血を伴う内臓疾患を抱えていたのかもしれない。
紫式部は結婚して3年足らずで未亡人となり、当時まだ2歳の娘・賢子(大弐三位)を育てていくことになった。
結婚生活では「待つ身の辛さ」を実感した式部
紫式部が、父の為時と元同僚で親戚関係にある宣孝と結婚したのは、長徳4(998)年頃のこと。式部は20代で、宣孝は40代だったとされている。
式部は、父が越前守になると、ともに越前に同行するものの、父の任期終了を待たずして、宣孝との結婚生活を送るために京に戻った。結婚の翌年には、第1子となる娘の賢子(大弐三位)が誕生している。
順風満帆のようにみえるが、結婚生活は必ずしも幸せなものではなかったようだ。式部より20歳も年上となる宣孝には、藤原顕猷の娘、平季明の娘、藤原朝成の娘など妻が多数おり、その間には隆光、頼宣、儀明、隆佐、明懐らの子も産まれていた。
なかなか自分のもとに訪れない夫の宣孝のことを、式部はホトトギスに例えながら、こんな歌も詠んでいる。
「たが里も とひもやくると ほととぎす 心のかぎり 待ちぞわびにし」
ホトトギスは誰の里にも訪れるもの、だから私のところにも来るんじゃないかと、待ちわびている――。
夫が自分以外の女性のもとにばかり通っていると思うと、待つ身の式部としては、さぞつらかったことだろう。
だが、宣孝は女性たちとうつつを抜かしてばかりいたわけではない。仕事のほうも、かなり精力的にこなしている。
前述した『権記』を見ると、長保元(999)年10月21日には、「弓場始」(ゆみばはじめ)という、宮中弓場殿での弓術始めの儀式が行われて、「右衛門権佐宣孝を所掌とした」と記載されている。
そうかと思えば、11月11日には、賀茂臨時祭の調楽が行われ、宣孝が「人長」、つまり舞人の長として、大いに張り切ったようだ。『権記』には次のように記されている。
「今日、調楽が行われた。殿上のあちこち、下侍の前において、盃酒の饗宴が行われた。右衛門佐の人長は、甚だ絶妙であった」
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