紫式部と藤原宣孝の子として誕生
紫式部の娘・大弐三位(だいにのさんみ)がどんな生涯を送ったのかは、それほどよく知られていない。
のちに大弐三位と呼ばれる藤原賢子が生まれたのは、長保元(999)年か、あるいは、その翌年とされている。いずれにしても、父親の記憶はほとんどなかったことだろう。父の藤原宣孝は長保3(1001)年に病でこの世を去っている。
結婚してわずか2年半で夫と死別した母の式部は、呆然としたらしい。その頃の心情として『紫式部日記』にこんなふうに綴っている。
「心に思うのは『いったいこれからどうなってしまうのだろう』と、そのことばかり。将来の心細さはどうしようもなかった」
(いかにやいかにとばかり、行く末の心細さはやるかたなきもの)
せめて気晴らしにと式部は、物語の創作を始めたようだ。これが『源氏物語』の誕生につながったと考えられる。
そんなとき、式部の人生に転機が訪れた。寛弘2(1005)年、あるいは、寛弘3(1006)年の年末に、一条天皇の中宮・彰子のもとに女房として仕えることになったのだ。式部が30代前半の頃のことである。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら